暫しの時の後、示されたアパルトメントの前に困った顔で立っているミュラーがいた。巡回兵に気が付かれないようにたどり着いたものの入る勇気がない。
「……オリビエに丸め込まれた気がする。しかし、情けないことだ……」
 まさか玄関前で夜を明かすわけにはいかないが、王城には大使館に用事があると出てきているので戻れないし、かといって大使館に連絡を入れてあるわけではないので完全に門は閉まっているだろう。
 困っていると扉の向こうに人の気配がした。慌てて脇道に身を滑らせる。アパルトメントのほかの住人だろう。溜め息をつきながら今晩どうしようかと考える。とにかく一晩どうにかできれば明日は王城に戻れる。
「……そこに居られるのはまさか」
 背後から声がかかった。振り向くとユリアだ。この時間に外にいるとは思わなかった為、完全に不意打ちを食らった。
「やはり……一体何故? 王城にいらっしゃるのかと」
「……あ……いや……オリビエに追い出された」
「えっ? ……とにかく部屋へ行きましょう? ここでは人目がある」
「構わない、か?」
 無言で頷き辺りを見回す。人通りが無いことを確かめてからミュラーの手をとり建物内へ。そのまま階段をあがり自室に入った。
「このフロアは私の家ですから人目は気になさらなくても大丈夫です」
「一人で住んでいるのか?」
「ええ、父が死んでからは。ほとんど城かレイストンに詰めているのでなんとも殺風景ですが。来訪者などなく、週に一回掃除の方が来てくれる程度ですので、本当に申し訳ない」
「いや……こちらが突然来ただけだ。気にしないでくれ。……何故こんな時間に外に?」
「走りこみです。なるべく毎日しなければ、いつまでたっても体が元に戻らない。それにしてもオリビエ殿に追い出された、と仰っていましたが……」
「そのとおりだ」
 ここに来るまでの顛末を語ると、ユリアは照れているような呆れているような、一瞬では判別できない表情をした。
「……とりあえず、お茶でも淹れますね。火は落としているので少し冷えてしまっていますがご容赦を」
「構わない」
 台所へユリアが消え、なんとなく部屋の中を見回す。殺風景とはいうが、ところどころ彼女の趣味らしき調度品が置かれている。見回すうち、壁の一角にボードがかけられ、そこに写真が貼られていることに気が付いた。
 幼いユリアとその傍に立つ軍人の写真。
 戦役を生き抜いた仲間たちの写真。
 クローゼとジークが戯れている写真。
 さまざまな場面を切り出す中、一番上に目立つように貼られている写真に目が行った。
 王都前広場。アルセイユを背景に、遊撃士たちと親衛隊とアルセイユ専属技術者たちと。半年前の帰還時の写真だ。もちろん自分も写っている。
「ドロシー殿が撮ってくれたものですよ。覚え、ありませんか?」
 テーブルの上にカップを置きながらユリアが声をかけた。
「ああ……覚えている。というか、俺もこの写真は持っている。オリビエがいつぞや渡してきた」
「殿下が仰るには、そこに写っている全員分、焼き増しをしたそうです」
「配るのも大変だっただろうな」
「そうでもないですよ。遊撃士たちにはギルド経由で渡せますし、うちの人間にはすぐ渡せる。一番渡すのに遠い方がなにを仰います」
 ポットからお茶を注ぎ、それを手に持ってボード前のミュラーの隣に立つ。
「確かに」
 笑い、カップを受け取った。薄めの茶だがこの時間には心地よい。
「……これは、父上殿か?」
「そうです。父はあまり写真を好まなかったので、これ位しか残っていない。その影響なのか、私も撮られるのは苦手です」
 ユリアの声を聞きながらいろいろ写真を見た。次いで棚の上の写真立てに目が行く。そこには彼自身の姿。その隣にユリアの姿もある。
「これは……?覚えはないぞ」
「私も覚えは無かったですが、どうやらドロシー殿がシャッターを押す中に混じったようです。あの庭園の壁の上、ですね。帝国から戻った時、殿下が渡してくれました」
「そういえばドロシー殿はあちこちで写真を撮っていたな……」
「殿下も人が悪い。今の私にこんな写真を渡したら、絶対にしまいこめないのをわかっているだろうのに」
「……」
 腕に頭を預けて笑う。カップの中で茶が零れそうになるので棚の上に置いた。ミュラーは中身を飲みほす。
「ミュラー殿。明日早朝から私はエア=レッテンに行くのですが……朝早くここから出ることになってしまいますけれど、よろしいでしょうか?」
「エア=レッテン? ルーアンの?」
 頷く。
「仕事ではないです。ただ、時折無性にあそこの滝を見たくなる。どうも今はそんなサイクルのようなので、休暇ついでに」
「そうか」
「普通にルーアンへ飛行船で行けばいいのに、中央工房から隧道を通っていくあたりがなんとも妙な行動だとは思うのですけれどね。暗い道から光の元へ出、そのときに見る滝の雄大さは言葉ではいえない」
「戻りは?」
「休暇全部を潰すわけにはいかないので五日ほどで戻ってきます」
 予定している帰国日に辛うじて間に合うかもしれない。だが、間に合わないかもしれない。
「……俺も見てみたい、気がする」
 やはり傍にいられるのならばいたい。だが、強く出られない。口の中で言葉を飲み込む。
「ミュラー殿、こちらへ」
 ユリアに示されるまま部屋に入ると、長い間使われていない印象の部屋。壁には作りつけの本棚があり、書架いっぱいに本が詰まっている。
「10年ほど使っていない部屋ですが掃除だけはしています。こちらでお眠りください」
「父上殿の部屋か?勉強家だったのだな」
 大量の本を見ながら呟く。
「半分ほどは私の本です」
「何?」
 自室に収まりきらないから父親の部屋に置いているのだと。
「馬鹿では親衛隊の上官は勤まりませんから。士官学校時代からよく揶揄を込めて言われたものです。「武のユリア」「文のカノーネ」と」
「ほう」
 カノーネの名は聞いたことがある。グランセル港事件の主犯の一人だったはず。
「だからという意味も少しはありまして……。人よりも努力しなければ自分ではついていけない、ということは自覚していますよ。何か気になる本があればお持ちいただいて結構です」
 頬を掻く。
「シャワールームはあちらになっています。私はしばらく起きているので、何かあれば遠慮なく仰ってください。それでは、良い夜を」
 やや性急に言い切ってきびすを返す。男は咄嗟に手を伸ばしかかったが寸前で止めた。彼女が自分をわざわざこの部屋へ通した理由があるから。
 卓上オーブメント灯をつけてベッドメイクされている寝台へ。仰向けになり、天井を眺めながら自分はどうすればいいのか考える。扉の向こうではばたばたと何かしている音がする。明日の準備だろう。しばらくその音を聞きながら天井を眺めつづけたが、懐からアーティファクトを取り出した。
 おそらくまだ眠ってはいないだろう。だが能天気な様子を思い出したら段々腹が立ってきた。自分は散々あの男に心配をかけられた。たまには逆もいいかもしれない。完全に動力を落としてサイドボードへ置き部屋を出る。
「ユリア、いいか?」
「な、何でしょう?」
 茶を飲みながら地図を眺めている女に声をかければ僅かに上ずった声で返事。
「俺もエア=レッテンへ行きたい。同行、構わんか?」
「定期船は使わない歩きの旅ですよ」
「問題ない。身分証は携帯しているから関所も通れる」
 じっと反応を見守る。
「そんな表情で言われたら、断れないではないですか」
 手招きするので隣の椅子に座る。
「断る気など、ないですけれど。せっかくですから、一緒に経路をきめませんか」
 隣の男に囁く。
「けれども、オリビエ殿はどうされるのですか?」
「知らん。どうにかするだろう。たまには俺のありがたみでも感じればいい。……感じなければこちらから見捨ててやる」
 だから、行き先は誰にも告げないでくれと付け加えた。わかりました、と応じて地図に目を落とす。
「セントハイムを出た後、リッター街道は使わずにツァイスへ行きます」
「道はあるのか?」
「もちろん。リッター街道は一番安全で最短な道ゆえ、大地図にも載ります。けれど」
 街道からはずれ、南へ指を動かす。よく見れば薄く線が引かれている。
「このような、もっと細かい特定地域の地図にはいろいろな道が載っているのですよ。ただ安全は本当に保障できないのですが。鍛錬も兼ねて新しい道を見つけてはあちこち出かけています」
「リベールの親衛隊中隊長殿は危ない趣味をお持ちだ。その様子では幾度か酷い目にあったのでは?」
 舌をだし肩をすくめた。
「正直な話は、主街道を使うと見知った人間に会うからですね。なにせリッター街道はレイストンへ行く軍人も数多い。休暇中にあまり会いたくない方、という場合もあります。また、この辺りには地図に載らない古い砦があります。通常軍務内でそこまで見回ることができない代わりに、せめてと思いまして。それに、今回は貴方がいる」
 ミュラーの手の上に自分の手を重ねる。
「……セントハイムを出るまでは、少し距離、おいた方がいいですね。グランセルでは私の顔と名前は知られ過ぎている」
 半年前の事件でアルセイユの名が突然リベール国中に広がった。知られていなかったわけではないが、一層の知名度を持った。それに伴い、アルセイユに携わる人間のことも知られ始めている。雑誌社が数社、写真つきの取材を申し込んできたこともあった。
「私は影でいい。人間は写さない約束の上取材にはあまり応じていませんが、それだけなのに妙に名前が広がって……、他の地方ならまだましですが、王都ではもうどうしようもない。……さすがに私の家までは知られていないようですがね」
「そう……だな。俺がきた時は、近くに不穏な気配はなかった」
 重なり合う手。本当は重ねたまま歩みたい。
「オリビエが、自分とクローディア殿は余計なことをしたのではないかと言っていた」
「……殿下も、同じようなことを仰っていました」
「そちらもか。……貴女自身はどうだ?そう、思うか?」
「全く」
 即答だった。
「あのまま、何もいえないままよりは。私のことですから、あれぐらいのことがなければ何を言うこともできなかったでしょう。あのような思いを抱えたままではきっと日常に支障がでたはず。もっとも、この間の離宮の時のような行き過ぎは困りますけれどね」
「俺も気が付かないまま、暮らしただろうな。知り合って初めて奴のお節介に感謝したい。そして離宮の件に関しては完全に同意だ。が……やはり寂しい……」
 ユリアの手の上に自分の手を重ね、力をこめる。
「ええ。でもきっと、いつかは、きっと……」
 夢を見る。自分達には縁がないと思っていた優しい夢。
「……きっと……」
 震える声。覗き込むと眦が濡れていた。
「無理はするな。せめて今ぐらいは」
 椅子から降りてユリアを抱きしめた。
 信じている。信じているけれど不安は消えない。揺れない心が欲しいが、それには自身の器が足りないのだ。女神ほどの器があればと。
「鈍感だの朴念仁だのと散々言われる俺だが、貴女の気持ちくらいはわかる。……無理はするな」
 優しく先ほどと同じ言葉をユリアの頭の上に降らせた。
「貴方も、私と同じだ。泣いていらっしゃる」
「えっ」
 確かに思うところはあるが涙は流れていない。見上げてくる青い瞳に、何を言うのかと抗議の視線を送る。
「涙など流さずとも泣くことはあります。どれほどそんなことを経験したか……だから、わかる。それほど想って頂けるとは、自分は幸せだ……ミュラー殿、私も」
「おっと。それ以上は言わなくて構わない。なにせ時間に状態が状態だ。もし最後まで言われたらさすがの俺も何をしでかすかわからん。明日は早いのだろう?」
 顔を赤くしながら体を離して、再び地図を覗き込む。
「こう見ると、ツァイス地方はかなり細々とした道があるのだな。この線は大体道だろう?」
「そうです。他の地方でも似たり寄ったりですよ。グランセルだけはアーネンベルク内でしかないのでそれほどでもないのですが。この間はこのルートを通ったから……」

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