「あら?何の音でしょう……」
 自室で書き物をしていたクローゼは目をあげた。どこからともなく素朴な音が聞こえてくる。
「ヨシュアさんのハーモニカ……ではないですね」
 以前にここで吹いていたが今彼は王城にいないことを思い出す。戸を開けるとより音が大きくなった。思うより近いところで鳴っているのかもしれない。女王宮から出、庭園に足を運ぶ。
「殿下、いかがされました?」
 見張りの兵がそっと声をかけた。
「あの音……気になりまして」
「確かに。自分も先ほどから気になってはいるのですが。楽器のようですね。笛、でしょうか」
「そうですね……。オリビエさんが王城に泊まっているから、彼かもしれません」
 仮装パーティー後しばらくリベールに滞在することにしたオリビエは、帰りたがるミュラーを諭して離宮から王城へ移動していた。
「……帝国の、皇子殿ですか?」
「ああ、ごめんなさい。私達はどうしてもオリビエさん、と呼んでしまうのです。ご本人も、そちらで呼んでくれと仰っていましたし」
 死線をくぐりぬけた仲間の前ではただのオリビエでいたい。あの事件の後、ぽつりと呟いた男がいた。自分も同じだからこそ、オリビエと呼びたい。
「それにしてもあの方は多才ですね。笛まで演奏できるだなんて」
「いやいや、あれはボクじゃないんだよー」
 階段の下にオリビエが立って手を振っていた。クローゼも手を振り、階段を下りる。
「オリビエさん、じゃないんですね。まだ聞こえている……」
「あれだけはボクより上がいるんだ。というか、性にあわないのか、どうしても吹けない。ボクは弦派なのだよ」
「オリビエさんにも苦手な楽器があるのですか」
 目をまるくした。
「どなたでしょう、この音は……」
「クローゼ君もよく知っているよ」
「そうですか? ……王城には笛が吹ける方も居ますがこの音は……。えっ?」
 はっとなってオリビエの顔を見る。
「うん、実はそうなんだ。一応彼も貴族の出だからそういうことは一通りできるんだな。一番上手いのが笛だけど」
「まあ……」
「滅多に吹かないんだけど今日は珍しくその気になったらしい。せっかくだからユリア君にも聞かせてあげたいと思って探しているのだが、親衛隊の詰め所には居ないようだ」
「ユリアさんは今日から休暇なので家に戻っていると思います」
「呼び出せない……よね、やはり」
「さすがにこの時間だとジークでも無理です。人を使えば大事になってしまうし……」
「やれやれ。毎度毎度すれ違いだねぇ。いたらいたで彼女は仕事命だ」
 オリビエは空を仰ぐ。降るような星空が視界に飛び込んだ。
「……公にできないから、気を使ってるのかな」
「そうかもしれません。ユリアさんはそんな人です。自分を殺してでも、リベールの損になるようなことは絶対にしない」
 オリビエが歩き出したのでなんとなくクローゼもついていく。ついたそこには手すりに座って笛を吹くミュラー。大きな手で笛を器用に操り、柔らかい音楽を奏でている。二人に気がつくと慌てて楽器を下ろした。
「やめなくとも良かったのに」
「こんばんは、ミュラーさん。素敵な曲ですね」
「クローディア殿……。静かな夜を邪魔してしまいましたか」
 会釈し、申し訳なさそうな顔をする。オリビエはとりあえず無視することにしたらしい。
「そんなことありません。綺麗な音です。なんと言う曲ですか?」
「帝国で歌われていた歌です。題は……」
「『あの空を越えて』だったかな、確か」
 オリビエが口篭もった友の代わりに応えた。
「……だそうです。自分は、曲は知っているが題などはほとんど知らない」
「『あの空を越えて』ですか。……もう一度、聞かせていただいていいでしょうか?」
「自分でよければ」
 クローゼは微笑みながら頷いた。
 木の下にクローゼが座る。幹に背中を預けたのを見てミュラーは楽器を口に当てた。素朴な音。笛の音だが、今まで聞いたどの音より素朴で、優しい音だった。オリビエがあわせて歌いだし、しなやかな低音が華を添える。
「……」
 聞きながら、ふとその歌詞が何を示しているのかに思い至った。柔らかい表情で笛を奏でる男の頭には、きっと一人の女が浮かんでいるとクローゼは確信した。
 少し照れた様子で楽器を下ろす。クローゼは惜しみない拍手を送った。
「オリビエさんもミュラーさんもすごいです。私のわがままを聞いていただいてありがとうございました。……その楽器はなんというのですか?いろいろ音楽は聞くのですが、初めて聞いた音です」
 男の手に収まる笛を見た。金属製のフルートはよく知っているが木製の横笛は珍しく、クローゼでもほとんど見たことが無い。
「これは、懇意にしている楽器職人が作ったと言っていました。フルートの原型だとか。古い古い文献をあたってようやくここまで造形したらしいですね。こちらに来る前に渡されて、どんな感じだったのか聞かせてくれと」
「なるほど。皇城だとキミが楽器を操っていたら凄まじい騒ぎになるからねぇ。前に、天変地異がおこるんじゃないかなんて一般兵に噂されていたよ」
「城が壊れると抜かしたのは貴様だがな」
「ゑ?そんなことないさ」
 オリビエが笑いながら口を開いた。ミュラーは目だけ親友に向けるが、何を言っても無駄だとばかりに目を閉じた。
「もう一人、居ればよかったのですが」
 間の悪い二人だ。そして双方ともに不器用だ。
「いや、お気遣い無用」
 近くに巡回兵の気配がする。近寄ってくるような真似はしないが僅かなりとも会話は聞こえているだろう。
「……彼女をミュラーが連れ去ってしまうと、きっとこの城の三分の一は機能しなくなるだろうなぁ。皇城でも帰国後は半数近くが意気消沈してた」
 オリビエが囁く。
「ヒルダ夫人からきいたよ。居ない間、なんだかんだでみんな動きが悪かったって。なにより、クローゼ君の落ち込み具合がひどかったと」
「そんなに落ち込んで見えましたか」
 苦笑して立ち上がる。裾についた土を払って軽く伸びをした。
「私はまた自室に戻ります。ミュラーさん、良い音を、ありがとうございました」
 深々と頭をさげ、男達をその場に残して歩み去った。女王宮にその姿が消えた頃、オリビエが呟いた。
「……なあミュラー……ボクとクローゼ君は、余計なことをしたのかな?」
「何を突然」
「逢えないし、公にできないし……下手をしたら」
「言わなくていい。覚悟の上だ」
 楽器の調整をしながら短く返す。
「……だが、哀しいかな人の心は揺れる」
「…………」
 しばらく考えていたが笛を唇に当て、幾度目かの『あの空を越えて』を吹き始めた。曲が終わるまで黙って聞く。
「降参だ。そうだね。キミをかばって凶弾に倒れた人のことを、キミが忘れるはずなど無いね。彼女は彼女で、そこまでした相手を忘れないだろう。……そういう人だ」
 笛を持ち、庭園の反対側を眺めるミュラーを見ながらオリビエは続けた。
「その笛で呼んでいるんだろう? ……彼女を」
「……」
「届くかな。届けばいいな」
「貴様がウキウキしてどうする」
「違いない」
 呆れたやつだと笑うミュラーに応じるかのようにオリビエも笑った。
「……そうだ」
「どうした?」
「ちょっとね。お節介ついでさ」
「いや、もう余計なことはしなくていい」
「そんなこと言わないで」
「しなをつくるな、しなを」
 ミュラーの呆れ声を背中に受けながら女王宮へ向かう。様子を見ていると見張り兵と何か話しているようだ。しばらくすると中に入ってしまった。
「……何をしているんだ、こんな時間に女王宮を訪ねるとは」
 懸念しているとまた出てきた。その足でミュラーのところへやって来る。
「はいこれ。じゃ、今から行ってらっしゃい」
「待て、話が見えん」
 何かが書き付けられた紙を押し付けられた。
「それ、見てみなよ」
「……教会裏、アパルトメント3048?」
「うん。じゃ行ってらっしゃい」
「だから話がみえんと……」
「彼女の家だよ」
「は?」
 頓狂な返事をしてしまうが無理もない。常識で考えてこんな時間に行けるわけがない。どうやって行けようか。
「何、門番にはなんとでも言うよ。そうしないと今晩、キミのベッドに忍び込んじゃうぞ」
「蹴り出すから問題ない」
「行かないとずっとリベールに居座ってやる」
「意地でもつれて帰る」
 無駄に激しいにらみ合いをするが、オリビエが先に視線をはずした。
「……何故だい?」
「常識を考えろ、常識を。それに、あの人はきっと望んでなどいない」
「そうかな?」
 普段が普段である。逢えるチャンスがあるのならば逢えばいい。オリビエはそう思う。
「恋人なら、こんな時間の訪問も許されるよ」
 きっとミュラーはまだユリアへの思いをもてあましているのだろう。的確に言葉にできず、ましてや理論だった行動などできない。突然の感情に押されて相手を傷つけはしないかと心配している。
「行ってくればいいんだ。笛を聞いて欲しいとでもなんとでも言ってさ。正直になりなよミュラー。たまには、そんな理由で動いてみればどうだい? それは決して悪いことじゃないんだから」

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