<Jade>

 

 翠。みどり。かわせみのみどり。柔らかな、翡翠。
 決して、エメラルドのように激しく輝かない。自分を主張しない。
 けれど、大きな存在感。中国では五徳が備わるとされた。
 石なのに色気がある妙。
「翠の字は、翡翠からなんだ」
「ああ。そう、親父がいってた。遠くは歴代中国皇帝も愛した翡翠、らしい。俺はあんまり宝石には詳しくないんだけどな」
 彼らの父は宝石が好きだった。その影響で翠は彫金師の道を歩むことになるのだ。
「玉として愛でられた翡翠。どうか誰からも愛されるように。それが、親父とお袋の願いだったんだと。だけどまさか、エメラルドに住んでた変なやつにまで好かれるとはなぁ」
「そんなのんきなこと」
「分かってるさ。でも、どうすればいい?」
「…」
 今はディアの力と護符のおかげで璃樹の部屋の中でおとなしくしているようだ。
「今は、ね。でも、動き出したときは私を狙いにくる。なぜかあの意思は私を敵視してる」
「お前らの世界でもいろいろあるんだな」
 妙に感心した口調。巫女があきれる。
「あのねぇ。今話し合ってるのは、翠をどうするか、だよ?」
「わかってる。けど、お前がどうにも出来ないなら、…どうすんだよ」
 憮然とした口調で返す璃樹。
「俺にはどうしようもないんだ」
 兄には頭が上がらない。いつだって手足のように使われて、悔しい思いも幾度ともなくした。けれど、けれども。
 両親が早く死に、親戚のうちに預けられたとき、結局彼が寄り添っていたのは翠だった。決していじめを受けたわけではないが、子どもながらに、ここは自分の家ではないことを知っていたからだ。兄のそばだけが、安心できた。
「……」
「なんだよ。なんか俺についてるか?」
 じっと見つめるディアにドキッとする。
「うん…いや、璃樹って翠のこと嫌がってるわけじゃないんだね、って思って」
「んー、まあな」
「なら大丈夫」
「なんでんなことがいえるんだ?安っぽいファンタジーみたいに、俺と兄貴の心が繋がってるとか何とか…」
「そんなこといわないよ」
「じゃあなんでだ?」
「根拠なんかない」
「…」
 璃樹はこの家を見捨てて出て行くことを決意した。
「ちょっと。翠どうするのよ」
「知るか。お前が「大丈夫」って言ったんだぞ?お前がどうにかしろよ」
「だからさ」
 部屋を出て行こうとする彼の前にいきなり出現する。空間を渡ったのだろう。
「あなたじゃないと翠に近づけないのよ」
「はい?」
 ディアははっきり言えば形のない、幽霊だ。精神生命体である彼女は、今の「翠」が出す嫌な気をまともに受けてしまい、ある一定の距離以上は近づけないのだ。その代わり遠隔地から邪気を抑えることはできる。
「だからね、あなたじゃないと。肉体をちゃんと持っている人でもすこしは辛いと思うけど、私はほんとにダメ。消し飛んじゃうぐらい強い」
「なんでそんなもんが俺んちに……」
 類は友を呼ぶ、という格言が頭をよぎる。が、すぐに追い出した。考えても仕方のないことだ。もう起こってしまった事態については。
「だったら俺じゃなくて、なんか他に…ほら、霊媒師とか」
「…説明、できるの?」
 言葉に詰まる。悪くすれば病院送りになってしまうような状況なのだ。つまりは、この家の中で解決しなくてはならない、ということだ。
 璃樹はため息をつきながらソファに戻った。
「で…。俺は兄貴に近付いて、何をすりゃいいんだ?」
「さっき感じたんだけど、翠自身はまだ取り込まれてしまってないの」
「そりゃそうだ。兄貴がなんにも言わずに取り込まれるはずがない」
「…もぅ。…でもね、押さえ込まれてる。だから、何か翠の意識を引き上げてくれるようなものがあればエメラルド魔人を追い出せるの」
「エメラルド魔人って…」
 名前がいつのまにかついていたらしい。
「追い出したらあとは私が消し飛ばす」
「…さっき出来なかったじゃねぇか。それに仲間がいないって」
「そういう大技はそれなりに精神集中させないと出来ないの!で、払うのと、消し飛ばすのとは違うの!払う方が消すより高等な術を要求されるし、魔力もいっぱいいるんだから!」
 激しい口調で言い返され、わかった、降参と手をあげた。その時、二階から大きな物音。
「…ドア、壊れた?」
「みたいね。来るよ」
「俺の部屋…」
 なんでよりにもよって俺の部屋なんだ。兄貴の部屋の戸を壊したってバチはあたらねぇだろうに。
 そんなことを思いながら立ち上がった。
「…兄貴?」
「…」
 「翠」は弟を見た。その眼窩は妖しい緑。よく見れば全身からも薄く緑の気が放たれている。首にかけてあった護符は跡形もなく消し飛んでいた。
「うっひゃぁ…。こええぇぇぇ…」
 内心泣きながらそれの前に立った。
「…退くがいい人間。私はお前達が嫌いではない。むしろ、愛している。このような愛すべき欲深いもの、他にはいない」
「だからって…」
「用事があるのはダイヤの眷属のみ。あやつらは、いつだって我の邪魔ばかり」
 要はいつもなんだかよくわからない邪魔をされるから、お前なんか嫌いだーってことか?思ったより子どもっぽいんだな。
 そんなことを思いながら近付く。
「なあ兄貴、目を覚ませよ?…ディア、このままだと消えちゃうぞ?」
 まずはディアのこと。翠はフェミニストなところがあるから、もしかしたら反応するかもしれないと思ったのだ。
「ディア?ディアとは何だ?…」
 「翠」が何かを考えている。
「そう…古い言葉の…ダイヤの眷属。…消えても構わないではないか」
「ダメだ!」
 後ずさり。
「こ、このままじゃ俺、兄貴にもう二度と会えない!」
「…お前はこの「みどり」の眷属か。…だが、蒼いな」
「聞く耳無しかよぉっ!」
 本当にディアが言うように、翠は起きるのだろうか。もうとっくに…。最悪の想像が頭を駆け巡る。
「さあ退け。ダイヤの眷属はどこに行った?隠しても無駄だ」
「んなこと言ったって、あいつどっかに消えちまったんだ。俺はそうなったらディアの場所なんかわかんねぇよ!」
 本当は隣りの部屋で結界をはり、その中で精神集中している。まだダメだとディアの声が彼に届いていた。
(まだダメって…俺もう限界だってば。怖いんだよ!)
 いつか、翠がとっておいた好物のお菓子を勝手に食べてしまったときより怖い。あの時怒り狂った翠は一週間璃樹をこきつかった。
(だけどそれを翠から離してくれないと、私がいくら気を集中させたって一緒なのよ?)
(わかってるさ…でも怖えぇぇっ!)
 眦には涙が浮かぶ。だいたいこういう現象は苦手なのだ。理屈で割り切れないことを敬遠してきた理由はそこにある。
「さいぜんから」
「ひえっ」
 唐突に声。
「なにを感応しあっている?…いるんだな?ダイヤの眷属が!」
「いませんいません!どこにもいませんってば!」
 慌てふためいて何をいっているのかがよくわからなくなってきた。
「どこだ、言え!」
 見えない力が璃樹の喉元を掴み上げる。
「さあ、さあ!」
「ふげぇっ!」
 言おうにも、喉から持ち上げられていれば何も言うことが出来ない。それに気がついたのか、「翠」もすぐに下に下ろした。
「さあ!」
「ゲホッ…。兄貴ぃ…なんで…」
 いくら璃樹をこきつかおうと、暴力だけはふるわなかったのに。座りこんで黙っているとまた持ち上げられた。
「黙っていても得にはならぬ。さあ、どこにいる?」
「…いうもんか」
「…」
 一つ呼吸する時間のあと、二階にまで跳ね飛ばされた。したたかに背中を打ちつけ、息も出来ない。しかし、起き上がる間もなく目の前に「翠」が現れる。
「人間。愚かな生き物。それゆえに、我はお前達を愛し…そして憎もう!」
 再び衝撃。戸を突き破り、翠の仕事場に転がり込んだ。
「っくぅ…」
 体が動くかをとっさに確かめた。
「今度はそこから外に出してやろう…さらばだ!」
「うわああああぁぁぁっっ!!」
 無我夢中で落ちていた数本の鏨を投げつけた。そんなもの何の足しにもならない。相手もそれがわかっていたのか、よけようとすらしない。全て、掴み取られていた。
「…もうだめか。兄貴、兄貴…気がついてくれよ…俺…」
 目を閉じた。しかし、何の衝撃も来ない。おそるおそる片目を開けると、緑色をしていた「翠」の瞳が元の色に…、璃樹と同じ、暗茶に戻っているではないか。
「…あ、兄貴…?」
 そっと呼びかけてみる。先ほどまで持っていた嫌な気はどこへやら。
「仕事!遊んでる場合じゃねぇんだ!」
「…は?」
 習慣とは恐ろしいものである。仕事道具を握った瞬間、自分が置かれている状況、すなわち、納期が近くて煮詰まっている、という状況を思い出したのだ。
「…マジかよ…」
 家族でもダメ、女性でもダメだった。けれど、仕事で戻ってきた翠。信じられないと頭を振るが、実際起きてしまったのだ。信じるしかないだろう。
「兄貴が仕事バカなのはわかってたつもりだけど」
 まさかここまでとは。家族としては素直に喜べない。
「璃樹!一体何やってんだよお前は!さっさと部屋を片付けろって言っただろうが!」
「いやその…」
「問答無用!さっさとやれ!」
 怒鳴られた。
 なんだこの理不尽さは。
 そう思ったが、これが日常なのだ。

「離れた!」
 気配で翠の意識が戻ったのがわかる。ディアと同じ精神生命体になったエメラルドの魔人は、物質という枷がなくなっただけ早く彼女を見つけるだろう。もうすぐそこまできているのがわかる。
「今度は…遅れをとらないから!」
 胸の前で印を組み、定められた韻を踏みながら気を高める。もはや魔人が気がつこうが、どうにもならないほどに。
「なにぃっ!?」
 狼狽の声が一瞬だけ聞こえてきた。けれど、ダイヤモンドと同じ強い輝きが魔人を襲う。数瞬後にはなにも残っていない。
「…消すべきではないんだけど…。私はひとりしかいなかったから、仕方ないよね」
 無理矢理納得して璃樹のところへ行く。と…。
「兄貴ぃ!お願いだから片付けるそばから散らかさないでくれぇ!」
「うるさい、気が散る!邪魔にならないように片付けろ!」
「そんな無茶なぁ…」
 その様子を見てディアは噴出した。これが、遠野家の日常なのだ。

TO BE CONTINUED


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