<Diamond>

 仕事が忙しいといって翠は最近家に戻ってきていなかった。以前の璃樹なら幸せでたまらなかった。以前ならば。
 今は兄が勝手に始めた趣味のせいで、家の中に妙な気配が漂っている。例のスターサファイアのリングが置かれっぱなしなのだ。
「…おちつかねぇ」
 呪いでもなんでもないとわかってはいても、ただの宝石だとはわかっていても。変な感じがまとわりついて離れない。仕事が遅くなって深夜に帰宅したときには、その感じが家から外に滲み出しているような錯覚すら覚える。
「そうだ、兄貴のところに持っていけばいいんだ」
 ということで翠が働いている宝石店に足を伸ばした。
 自宅から電車で三十分ほど行った商店街に、兄の店はある。もともとは彼らの後見人である叔父の店であったが、翠が欧州から帰ってくると同時に権利を譲り渡しており、文字通り彼の店だ。もっとも、経営などの細かいことはまだ叔父がやっており、翠は今その勉強をしている。
「ここだここだ、兄貴、いるか?」
「え、あ、璃樹さん、ちょっとお待ちを…」
 販売員が止めるのも聞かず作業場へ入っていく。閉じられた扉を思いっきり開くと作業中の翠の姿。
「兄貴っ!こんなもん家において…」
 まくし立てようとした璃樹だが、ゆっくりと振り向いた兄の形相にそのまま固まった。
「あ…にき…?」
 無言で作業台の上を指す。種々の鏨と、きれいに割れた何かの原石。
「…璃樹。俺に喧嘩売る気か…?」
 ぶんぶんと頭を振る。
「作業中は入ってくるなって…表に書いてあったろうが」
 翠はリングにつけるためのダイヤモンドを適度な大きさにしようとしていた。このダイヤモンドという鉱物、硬いのは非常に硬いが、その結合の特性上ある一定の方向にものすごく割れやすい。大まかな形はそれで決められるが、細かに研磨するなら同じダイヤを使うしかない。
「この忙しい時期に…またデザインきめ直しじゃねぇか!」
 怒鳴られ、つまみ出されてしまった。怒り任せに閉められた戸をよく見ると、確かに『作業中・立ち入り禁止』の文字が。
「後が怖い…」
 うなだれながら家路についた。結局サファイアは渡せず終いだ。いやそんなことよりも翠の邪魔をしたのだ。落ち着いたときになんと言われるか。
「忙殺されて忘れてくれりゃいいけど…」
 多分無駄だろう。翠は記憶力はいい。特に、自分が邪魔された事に関しては。
「…ふふふっ」
 誰かが笑った。渋面であたりを見回すが誰もいない。
「…」
 気のせいにし、さっさと家に帰る。帰り着いたところでまた聞こえた。
「…あはははっ…」
「誰だよ!」
 機嫌が悪いときにこんな風に笑われると余計に腹が立つ。
「ここ、ここ」
「わっ!?」
 かばんの中から声がする。思わずかばんを投げ出した。そこから例のリングが転がり出る。
「……」
 なにやらもやが漂い始めた。玄関にへたり込んでいるとそれは人の形をなす。
「…」
 強い輝きを宿す瞳。異国の巫女のような格好。なかなかの美人だ。
「投げるなんて、失礼ね」
「………」
「ちょっと、なんとか言いなさいってば」
「……」
 その時、璃樹は今起こっていることを必死で合理化しようとしていた。そしてそれが無駄に終わったあと、次は夢だと思い込んだ。が、ほほを引っ張っても痛いだけで、何も状況はかわらない。
「…!!?!????!?!?」
「ちょっと…。そんなわけのわからない驚き方しないでよ」
「でででで…でた…」
 反射的に無理やり持たされていた護符を掲げる。女性はそれを見て興味深そうに頷いた。
「…ふーん。結構いい作りね。模様も派手すぎず地味すぎず…。これ作った人、いい腕してる」
「…あ?」
「気に入ったわ。今日からこっちに住む」

「で…住み着いちまったのか」
「あなたがこれ作った人?へぇー。いい男」
「光栄だな」
 ようやく仕事が落ち着いて戻ってきた翠は、すでにこの女性と順応している。
「兄貴っ!」
「何だよ璃樹」
「何順応してんだよ。さっさとこの幽霊、どうにかしてくれってば」
「でも…美人だし。住み着いちゃったし。俺は気にしないぞ」
「俺は気にする!」
「…やっぱりこういうの怖いんだな」
「そうじゃなくて!」
 論点をずらされたことに気がつき、慌てて黙る。
「いいじゃないか別に。悪霊だったら護符に住み着いたりしねぇよ」
「悪霊なんかと一緒にしないで。これでも神託を受ける巫女だったんだから」
「で、その巫女さん、お名前は?」
「名前…名前はないの。巫女は巫女。そんな風に生まれたから」
「かといって巫女さん、っていちいち言うのも面倒だし。おい璃樹、いい名前思いつかないか?」
 突然話を振られた彼は肩を震わせる。
「お、俺に振るなよ」
「そうか」
 こっちもあまり答えを期待していなかったようで、すぐに巫女に向き直りじっとみつめる。
「…あんたの眼。その強い輝き。ダイヤモンドみたいだな」
「ダイヤモンドかぁ。昔、住んでたの」
「渡り歩いてる?」
「そういうわけでもないんだけどね」
 世間話をしている二人を尻目に璃樹はその場からゆっくりあとずさっていった。
「どこ行っちゃうの?」
 女がそれを目ざとく見つけ、彼の目の前に現れる。
「せっかく話ができる人、見つけたのに」
「あああああ」
 口をぱくぱくさせながら彼女を見上げる。
「からかってやるな、巫女さん」
 翠が笑いをこらえている、という感じで声をかけた。
「そいつは不可識な現象は苦手なんだ」
「そうなんだ…。でもさ、せっかく話ができるんだから、ね?」
「ね、じゃないー!」
 璃樹は絶叫するが二人とも聞いていない。
「で、名前なんだが…、まえからこう呼ばれてみたい、っていうのあるか?」
 翠の言葉に頭を横に振る。
「…まいったなぁ。こういうの苦手なんだけど。璃樹のほうが得意だろうに」
「俺に振るな!」
 と噛み付く。肩をすくめる翠。
「…まぁいいや。で、あんた、もともとダイヤに住んでたって?」
「うん。おおきな、大きなダイヤモンド。そこで、私は巫女として生まれた。長い間そうやって存在していたけれど…」
 突然平和は壊れる。ダイヤモンドが割られたのだ。その弾みで彼女は外に飛び出してしまい、さまよった挙句さまざまな宝石に移り住んできたという。
「じゃ、サファイアに住んでいたのも、転々としていた証なのか」
「そういうことね。でもあのサファイア、住みごこちは良くなかったの。ねとっとした視線にいつも曝されて…、嫌だって意思表示したんだけど気がついてくれなくて」
「もしかして…、なんか外界にちょっかい出した?」
「ううん。そんなことしない。だけどやっぱり嫌だ嫌だって思ってるから、無意識のうちに視線を跳ね返しちゃったかもしれないけど…」
 あのサファイアにまつわるもろもろのことは、やはり持ち主の女性が原因だったのだ。翠はため息をついた。
「ま、彼女が護符に住むっていうなら、あのサファイアはもう妙なことにならないだろうな」
「さあ、どうかしら…。私のほかにも変なのがいたみたいなの。私の霊格のほうが上だから出てくることはなかったけど…。だからいるのかどうかわからないけど…」
「あれだけのものだ。元から住んでいる精霊や、他のものもいるだろうさ」
 女性と翠がしみじみしている。それをあきれた顔で璃樹は見た。
「なんで兄貴は順応できるんだ…」
 頭を振りすぎてくらくらしてきた。いや、それだけではないだろう。どこのものとも知れぬ装束の、輝きの色を宿した女。ダイヤモンドでうまれたというのも嘘ではないだろう。それは認める。認めるのだが…。
「こんな非現実的なことが、どうして起こるんだ…」
「いいじゃないか、生活に張りが出て」
 呟きを聞きつけて翠が笑う。
「こんな張りやだよ。俺は普通でまっとうなサラリーマンでいいんだ!」
「もう十分真っ当で普通じゃないって」
「それが嫌なんだよ」
 涙目で訴える璃樹にまあまあと手をあげる。
「そんなことよりだ。彼女の名前付けてやってくれ。俺は苦手なんだ。かといってあんた、とか巫女さん、なんて呼ぶのもなんだし」
「別にいいじゃないか!」
「だってこれから一緒に住むんだぞ?」
「俺は認めてない!」
「…そうか。璃樹。お前、昨日俺の仕事場でなにが起こったか…」
「!」
 淡々という兄の声。それが一番怖い。
「わかったわかった!」
 半泣きでわめく。まったく、兄が戻ってきてからろくな目にあっていないと、璃樹は心底から思った。
「で、名前だ名前」
「別に私は構わないよ。ずっと名前なんかなかったし」
「いや、せっかく知り合えたのに」
「…ありがとう…あ、あなたの名前、まだ知らないんだ…」
「俺は翠。こっちは…」
「うん、彼はあなたが呼んでたからわかる。璃樹さんでしょう?」
 にこにこと笑う巫女。邪気のない笑いに璃樹も苦笑した。
「ダイヤで生まれた…か。ディアってどうだ?」
「いい響きだな。こういうことはやっぱりお前に任すに限る。で、その意味は?」
「ラテン語でダイヤモンドって、ディアマスって言うんだ。そこから」
「ここでラテン語が出てくるあたり、お前も普通じゃないとおもう。さすが、大学時代語学に傾倒しただけのことはある」
「それほめてんのか?」
「ああ。で、巫女さん。ディア…でいいかい?」
「ありがとう。ディア…、うん、気に入った」
 本当にうれしそうにいうディアを見て、璃樹は思った。妙なことだけど、普通じゃないけど、こんな妙な共同生活も悪くはないな、と。

TO BE CONTINUED


戻る