巡回が終ったと報告しに執務室に入ると上機嫌なオリビエの笑顔と目が合った。この非常時に一体何をしているのかと思うが立場上指摘することもできない。
「一階東翼、異常なしです!」
「ありがとう。まあまあ、力を抜きなよ。まだまだこの先長丁場なんだ。そんなにかたくなってたら何もできないよ」
 不意に立ち上がる。これでも、と予備のカップにコーヒーを注いで差し出してきた。どうしようかと迷うが結局受け取る。それを見て満足したオリビエは自分の分にもコーヒーを淹れて席に戻った。
「……うーん、なんだか落ち着かないや。あけていたのは二ヶ月くらいだけど自分の場所じゃない気がする」
 言いながら執務室を見回す。吊られて巡回兵も見回した。元々あまり階級が高くないので自分にとっては元々見慣れていないなと心で呟く。統一感のある家具に手刺繍らしきカーテン、その他調度品も自分の給料では届かないのだろうと思う程度だ。
「こんなところはボクには似合わないよね」
 続けられた言葉にコーヒーをこぼしそうになった。なんと言うことを聞くのだこの御仁は。自分のことなど忘れてしまっているのではないだろうかと眉間に皺を寄せる。そんな巡回兵の葛藤など知らないとばかりにオリビエは続けた。
「本当の意味でここが似合う人間なんて、滅多にいないだろうけれど。父上でさえも、ね」
「……」
 巡回兵は返事をせずコーヒーを飲む。少し濃いが許容範囲内か。もう少しいい豆を使えば味が格段に上がるだろうが、今の物資不足では仕方が無いことだ。と、ここまで考えて思い出す。
「そういえば……そろそろ帝都の封鎖、解除になるんでしょうか」
「ん? 備蓄が足りなくなるのかい? それは困った……封鎖解除はヨハネス卿しか命令できない」
「いや、まだあるとは申しておりました。しかしながら最低備蓄量を割り込む可能性があるとのことです」
「何日くらいで?」
「そうですね……」
 しばし考えるがいい加減な返事をするわけにはいかない。遊撃兵が一番に押さえ込もうとした場所、もちろんオリビエたちにとっても生命線である。
「後ほど、料理長から報告させます。そちらで問題ありませんでしょうか?」
「ああ、そうだね、それがいい」
 軽く頷く姿に頼もしさを感じた。つい一年程前には考えられないことだなとこっそり思う。あのころ、彼の存在すら口に出すことは忌み嫌われていたというのに。
 巡回兵は最初からオリビエの部下だった。だから、彼がどんな暮らしを強いられてきたのか多少なりとも知っている。ほとんどの公式行事には参加せず、出なければならないものはできる限り目立たずにやり過ごした。自分から政に関わることはせず、また今後も関わる気は無かったのだろう。それくらい、彼のこの一年の動きは性急だった。
「思ったより根回しは上手いようだけれど」
 皇帝の血筋に連なるものとはいえそれまで上流社会ではないものとされてきた存在。いくら社交界に出るとはいえ、すぐに派閥に食い込めるとは思っていなかった。やめておいた方がいいと散々に議論をしている時もあったが、フタをあけてみればなんとかやっていっている。これはオリビエのブレーンたちも驚いた。
「いい天気だね。いっそ書類仕事なんかやめちゃって中庭でみんなで日向ぼっこしようか」
「そんな……」
 暢気な物言いに苦笑いを返しているとノックの音。
「なんだい?」
 オリビエが返事をし、巡回兵が戸を開ければ壮年の男と、後ろに隠れてもう一人。
「近衛長と……オットーか。どうかした?」
 部屋に入ってきた近衛長はオットーを促す。
「あ、はい。西翼巡回行いました。裏に抜ける道に何かの足跡があった以外は他に何もありませんでした。その足跡も現在腕の立つ人間が追跡中です。今晩中には報告を持ってこられるかと思われます」
「そうか。嫌だねぇ」
 渋面になりつつもまたコーヒーを入れ、新たな来訪者たちへ手渡す。
「で、近衛長のほうは?」
「牢に放り込んでる奴ら、どうする? 脱走計画練ってやがった」
 呆れたといわんばかりにクシャクシャに丸められた紙を放り投げる。広げると、走り書きで実行日らしきものか記されていた。
「……昨日だったんだ」
「バカの一人がこいつを落としていてな。そっと人数増やしてたら妙な動きはあった。が、結局そのままだったからとりあえず今日報告しようと」
「……では、裏に抜ける通路の足跡は」
「だろうな」
 オットーの言葉に頷く近衛長。
「……」
 オリビエは二人のやりとりを見てしばらく考え込んでいたが、溜息を一つついて頷く。
「とりあえず大佐と話をしてみたい、かな。彼の耳には脱走計画も入っているだろうし」
「そういうと思った。おいオットー、ひとっ走り連絡して来い」
「あ、ボクが行くよ。彼は出てこなさそうだしね」
 走りかかったオットーの肩に手を置く。
「そういえばヴァイス君は大丈夫かい? かなり深手を負っていたようだが」
 あの日、男坂を駆け上がるオリビエを庇って怪我をしたホルスト。現在は大事を取って休みを取っていると聞いている。
「はい。クルツリンガー先生から、もうそろそろ訓練に復帰できるとのお許しがでました」
「そうか。ミハエル先生がそういうならそうなんだろう。あの先生は名医だ」
 ユリア君もきっちり治してくれたし。片目を閉じながら言えば他の面々も軽く笑う。
「ああ、それで思い出した。少佐が話したいことがあるって言ってたぜ、皇子殿下」
 手を打つ近衛長。
「……ミュラーが?」
「そのうち顔出すんじゃねぇの? なんか思いつめてたようなそうでないような」
「ふーん?」
 少し考え込むオリビエ。
「よく分からないからいいや。先に大佐に話を聞きにいこうか」
「諒解」
 

「あれっ?」
 薄暗い階段を下りていくと、手に明かりをもったミュラーが海軍大佐の牢の前にいた。
「なんだ、貴様も来たのか」
「近衛長から話を聞いてね。なんでも脱走がどうのって」
「らしい。たいしたものだ。先ほどから何も言わない」
 捧げもったランタンに照らされて牢の奥がよく見えるようになった。オリビエが来たことに気が付いていないはずはないだろうが、黙って天井を見上げている。
「やあ大佐。こんなところに押し込めてしまってすまないね。体調などはくずしていないかい?」
 久しぶりの友人に会うような声音に周りが驚いた。大佐自身も目を丸くして顔をオリビエに向けている。
「脱走計画の件、知っていたんだろう?」
「……」
 まだ驚いていた大佐はそれを聞くとまた先ほどまでのように天井を眺める。オリビエは特に気にした風でもなく続けた。
「残念ながら諸君は捕虜としてボクたちが身柄を拘束中なんだ。だから最低限の保障は行う。ただ、これは大人しく拘留されているという大前提がある」
 一旦言葉を切って中の様子を窺う。相変わらず反応はない。
「大前提がひっくり返ってしまえば、こちらとしてももうどうしようもない。そのときは容赦しない」
 最後の一言を告げるその声は限りなく冷たい。部屋の温度が数度は確実に下がった、とオットーは感じたほどに。周りの様子を窺うとミュラーとオリビエ以外の、声が聞こえた全員がなんともいえない表情をしている。
「これは警告。この意味はわかっていると思うから詳しくは言わない」
「……承知、しております」
「ならいい」
 一瞬だけ満足げに微笑んできびすを返す。黙ってミュラーが後に従って、また階段を上がっていってしまった。
「……」
「……」
 見送った面々は完全に気配が消えてしまってから息を吐く。
「こ、怖かった……」
「おいおいオットー。しっかりしないか。……ま、俺も驚いたがな」
 あんな面もあるんだなぁとなんとなく納得する。
「それでなければ皇族じゃねぇ気はする。やっぱり末席末席言われてても、皇子には変わりないんだな、あの御仁も」
「驚かないのは少佐殿くらいなんでしょうね」
「少佐と……もう一人、確か長い付き合いの友人がいるはずだ。そいつとあわせて二人くらいだろ、驚かないのは」
「ディーターさんですね。少佐殿もそうですが、ディーターさんもなかなか気合の入った方でした」
「俺は会ったことはないんだな。部下が何人か、メシ食いにいったとは言うが」
 オットーが嬉しそうな顔をする。
「美味しかったですよ。今は営業していませんが、営業再開したら是非に行きたいところです」
「緊張感のねぇヤツだな」
 軽く頭を叩いて牢の中を覗く。相変わらず海軍大佐は黙ったままだった。


 階段を一歩一歩踏みしめる。古い城である、その都度バラバラと細かい石が落ちていく。
「これも修繕しないと危ないよね」
「俺たちくらいしかこんなところには来やしないだろう。気をつけていれば問題ない」
 木戸を押し尖塔の見晴台に立つ。とっくに夕闇は終わり、長い長い夜が始まろうという時間。
「そっか。そうだね、先に街のほうを直さないと。この騒ぎで本当にみんなには迷惑をかけてしまった」
「……」
 それに答える事はせずにミュラーは眼下の景色に目をやった。普段であればいくつもの街の光が灯され、光の帯を作っている。けれど今は暗い。数えるほどの明かりしかない。
「街灯に火を入れる人も今いないしね。街の人も……出て行ったままだ」
「……暗いな」
「うん」
 ほぼ誰も来ることがない尖塔の一つで、何かあれば二人してここに来て街をみた。それだけで自分が何をやっているのか、改めて確認することができた。
 実際、今も確認できているのだろうとミュラーは思う。自分たちの選択の結果が今の、明かりのない街だ。分かってはいることだが心の奥が痛い。この城自身は好きではなかったが、ここからの光景は好きだったのだろうなと再認識した。
「怪我の具合はどうだい? あんまり様子を見にいけてなくて申し訳ないけれど」
「貴様の顔を見ないで済むほうが早く治るようだ。もう問題はない」
「ひっどーい!」
 憤慨したと肩をいからせる。虫を払うようにそれを自分から引き離した。
「貴様は貴様がするべきことをしろ。俺は自分にかかる火の粉ぐらい払える」
 皇城に戻ってから二人で話をしたことが数えるほどしかなかった。広い城内のこと、全ての部屋をクリアリングするのに相当の時間を取られてしまった。その時の事後処理も当然半端ではないほど多く、オリビエは少しでも早くとばかりに自身も駆け回っていた。
 ミュラーはミュラーで城下に散ったままの遊撃部隊を追撃し、ようやく一通りめぼしい人間を捕らえたところで城に戻った。そのときの城の様子は今でも忘れられないほど荒れていた。歴史的価値のある調度品が置かれているところはフライハイトが毎日掃除をしていたというが、東翼の、襲撃者たちが寝泊りしていたところの荒れ方は半端ではなかった。ミュラーが城に戻ってから二週間ほどたった今でもまだ手をつけることすらできていない。
「じゃ、その火の粉を払いたいって話かい?」
「……そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
 静かに呟く。
「そっか。じゃあユリア君のことだね」
「何?」
「あ、顔色変わった。正解だね」
「……」
「何故分かったかって? だって、キミが中途半端な物言いをする時ってだいたいボクのことだったもの。でも今回はボクには本当に身に覚えはない」
「その言い方……微妙に引っかかるんだが」
 分かっていて今までの行動を起こしていたということである。気にしない、と妙に愛想よく肩を叩いてくるので諦めた。
「で、もう一つ中途半端になる時があることを思い出したんだ。今までのキミの言動を研究した結果だね、ボクのことに次いでユリア君のことを話題にすると、どうにも歯切れが悪い……」
「もういい。貴様になど話さずにさっさと実行すればよかった」
「ああんいぢわる」
 手すりに寄りかかってしなを作るのでとりあえず無視することにしたが。
「でもまだボクの方を愛してくれているね、ミュラー」
 もう少しでそのまま塔から落ちるところだった。足がもつれ、慌てて手すりにしがみ付く。
「キミの愛はちゃんとボクに伝わってるから。そんなに恥かしがらなくてもいいよ」
「その口、ミハエル先生に縫って貰おうか」
「ゴメンナサイ」
 頭を掻いてまた夜の街を眺める。深呼吸をして乱れた息を整えた。
「封鎖が解けたら出かける。構わないか?」
「いいよ」
 間髪いれずに返事があり思わずオリビエを見た。彼もミュラーと同じように街を眺めている。
「いいのか? 内容も聞かずに」
「今しかできないことなんだろう? 有事である、今しか」
「……」
 やはりこの男も上に立つ人間なのだなと何度目かの再認識をした。よく人を見ている。
「今このタイミングでないとできない、ってことしかキミは提案してこない人だからさ。封鎖解けたら周辺にいる黒幕たちを捕らえようと思っているから、それの指揮をお願いする。もちろんキミが現場に出て行ってくれても構わない」
「……ああ」
 感謝の言葉は全てが終ってから。そう決めてあるのを破りそうになり、慌てて言葉を飲み込む。ふと顔を見ると、分かっているよと言いたげな柔らかい表情をしている。いい表情をするようになったとミュラーも頷いた。
「それにしても……やっぱりボクよりユリア君の方を愛しているのかな。少し心配になってきちゃったよ」
「は?」
「逆の立場だったらボクのためにこの忙しいタイミングでなにかしてくれるかなーって不安になった、かな」
「ふん。それができないようでは貴様の知り合いなど勤められん」
 手すりに背を預けて足元に視線を送る。オリビエはなにも言わなかったが、それ以上自分の言った台詞に傷つくことはないようだった。


「くそっ、あの青二才め。ようやく解除したか」
 帝都郊外にはいくつか帝国貴族の屋敷がある。その一つにあまり良い噂のない大臣ドナートが住んでいた。その時々でうまく立ち回り、一番力が強い人間については下の人間を足蹴にしてきた。現在は宰相派にすりより、その権勢に乗って私服を肥やしつづけている。
「この数ヶ月、全然帝都の様子がわからんのでは手の打ちようもない。何が『帝都周辺の安全の為』だ」
 だがそれはオリビエ派の人間も同じはず。
「ヴァンダールの若造……! こんなことならば襲撃の目的地に加えておけばよかった!」
 机を強く叩いては吐き捨てる。ドナートは皇城襲撃の黒幕の一人で、連絡を密にとりながら指示をしていくはずだったのだ。それが封鎖のおかげでなんにもできず、他の仲間に嫌味を言われながらここしばらく過ごしていた。その嫌味を忘れる為、酒瓶が手放せなくなったのは苦々しい。
「しかし壁を乗り越えようとする間者ですら見つけてしまうとは、腕立ちなのは確かだ。この辺りから崩していかないと、ヴァンダール家を落とすのはほぼ不可能といっていいくらいかもしれん」
 今後の課題だなと、手元の酒瓶から勢いよくグラスに注いだ。それをあおっているところに警備隊長が飛び込んできた。
「閣下!」
「なんだ。酒ぐらいゆっくり飲ませろ」
 真っ赤な顔をして隊長を怒鳴りつける。一瞬怯んだ男だがすぐに気を取り直した。
「閣下、大変です! 皇子軍が攻め込んできました!」
「なんだと!?」
 酒瓶を落とす。床に落ちて割れた瓶から流れ出す液体が床を濡らしていく。
「ちっ……嗅ぎ付けたか。他の人間から先に行くかと思ったが……」
 警備隊長に応戦するように指示して部屋から追い出す。
「そんなことをしてしまえばこちらに非があることと認めてしまうことになります閣下! 是非お話し合いを!」
「さっさと行かんか!」
 扉の向こうから悲痛な声が聞こえたが今はそれどころではない。引出しから、当面の生活資金と何かあった時の袖の下用に使えるかと宝石箱を取り出した。そのまま机の真下に作ってあった通路へと身を躍らせる。酒浸りの生活が続いたせいか降りたときにひっくり返り、宝石をばら撒いてしまう。
「くそっ!」
 舌打ちをしながら見えているだけでもかき集めて、屋敷の外へと続く通路を走り始めた。
 どのくらい走ったか、ようやく出口にたどり着いた。少しがたついている梯子を上り、頭を少しだけ出して辺りを窺う。
「いけるか」
 太った体を穴からなんとか引っ張りだして自分の屋敷の方を見れば、どこかが焼けているのか煙を出している。歯軋りをするが自分が無事ならまたどこかで今以上の屋敷を作れると納得させてまた走り出した。
「……部下たちに戦わせ、自分は真っ先に逃げるのか」
「!」
 少し走ったところには河があり、そこに専用のボートを置いてある。誰もいないと安心していたところに声をかけられ、ドナートは情けない声を上げてしまった。
「残念だったな、モーリッツ・フォン・ドナート大臣」
「貴様は……末席皇子の腰ぎんちゃくの……ミュラー・ヴァンダールか!」
 ミュラーはゆっくりと動きドナートと対峙した。愛用の大剣を構えながら。
「ま、まて! 話し合おうじゃないか!」
「……十年前」
 構えを崩さないまま静かに口を開く。
「貴様は百日戦役を指揮していたな?」
「そ、それがどうした! 十年前のことなんぞ何が関係ある!」
「リベール国、ツァイス地方へ進軍した大53分隊のことを覚えているか?」
「何を言っているのだ貴様は!」
「リベール軍ツァイス第二分隊を捕虜とした時。貴様もその場にいたな?」
 淡々と続けられる言葉に落ち着き無く肯定する。
「国際間の取り決めで、当時から捕虜に暴行を加えることは許されなかった。が、貴様たちはそれを見逃したな?」
「し、しらん! 何処にそんな報告があるというのだ!」
「具体的な内容報告はない。ただ当時の記録が一行二行で記されているだけ。……だが、悲痛な叫びはあった」
 ミュラーの大剣がゆれる。その動きに目が行って離れない。いつこちらに来るか。どうやったらあれから逃れられるか。そればかりがドナートの頭を支配する。
「一人……まだ伝令に過ぎない、少女がいたはずだ」
「……そ、そんなこともあったかもしれない……これでいいか! 認めたぞ、その言葉が欲しかったのだろう!」
「ああ……欲しかった」
 言いながらミュラーは手を動かした。滑らかな動きでドナートへ振り下ろされる。とっさに避けたが豪奢な服の一部が切り取られた。
「何をする!」
 言いながら隠し持っていた拳銃を取り出し引き金を引く。だがお見通しだとばかりに避けられてしまった。弾切れするまで撃ったことに気が付いたドナートは震えながら後ずさりをした。
「な、なんなんだ貴様は! 何の為に、こ、こんなことを!」
 失禁しながらも必死でミュラーの剣から逃れようと逃げる。それをゆっくりと追う男。
「口止め料が欲しいならほらいくらでもやる! ほ、ほら!」
 宝石箱をひっくり返し、中の石をばら撒くがミュラーは毛ほども動揺しない。
「何の為に? そんなことはたった一つだ」
「な、何だ!」
 続けられた言葉をドナートは聞くことはなかった。無慈悲に剣は振るわれ、憐れな元大臣は自分がばら撒いた宝石の中に倒れたからだ。
「私怨。それだけだ」
 剣についた血を拭きながら呟く。そうだ、私怨以外のなにものでもない。
「こんなことをしても貴女は決して喜びなどはしない。だから俺は言わない。もう知る必要はないことだ。何がしかのきっかけでこのことを知ったとしても、俺は嘘をつきつづける。それだけは、許してくれ」
 微笑すら浮かべながらあの時ユリアは過去を語った。静かなはずの口調は、ミュラーには絶叫に聞こえた。ずっとずっとそれは彼から消えることは無く、直接関わった人間を手にかけた今でも残ったままだった。ユリアにはなにも非はない。敵を討って欲しいなどと、毛頭思っていないだろう。だがミュラーはそれだけでは納まらなかった。
 未だに癒えきらない傷を抱え笑うユリア。そんなことは他にもきっと起こっているだろう。それでも知ってしまったから。他の誰でもない、自分の愛した人が傷つけられ、それを咎められることも無く生きている人間がいることを知ってしまったから。
「自分の筋違いの怒りを発散させているだけだ。罰ならいかようにでも受ける」
 ぼんやりと死体を眺めた。今自分がしたことはきちんと理解している。今後もその重さは自分が背負うつもりだった。
「少佐殿! 屋敷は制圧いたしました! ただ大臣は……!」
 走ってきた部下が地面を見てはっとなる。ミュラーと大臣の死体を見比べた。
「向こうから撃ってきた。正当防衛だ」
「は、はあ……」
 辺りを見回せば確かに銃痕が残っている。だが、上司の技量であれば捕虜にすることもできたのではないか。そんな疑問が頭に浮かぶ。
「……いこう。次の目標はどこだ」
「あ、はい……」
 だが結局部下は疑問を口にはせず、ミュラーも指示を出しながらその場を立ち去りかかる。
「……」
 ドナートを一瞬だけ眺め、その後はもう振り返らなかった。

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