捕らえられた船の責任者らしき男は、現在ユリアの部下に詰問を受けていた。若干手荒な時もあったが、とりあえずそれは後から指摘しようと、近くにある箱から一つオーブメントを手にとった。
「やはりそのようだ」
「では全てが」
 渋面のテニエスにこちらも神妙に頷き返す。思ったとおり、内部はここ最近見慣れているリベール風。が、報告にあったように刻印はひとつとしてなかった。
「なんでこれ刻印ないんでしょうね? 不謹慎だけど、つけてたらきっと手にとったときに不審に思われることはないだろうのに」
 ルクスが一つを掲げながら疑問を発した。
「親衛隊の一員ともあろうものがそんな認識だと困るぞ」
 あきれた奴だとテニエスがルクスの肩を叩いた。へ? と判っていない表情を返す操舵士。
「この刻印は特殊な刻印のされ方をしている。機械は各国の長……我が国であれば女王陛下しかご存知ではない場所に保管されているのだ」
「……そういうこと。だから、刻印を打ちたいならば長をまるめこまないといけない」
 テニエスの後をエコーがとる。
「もっとも……例えこれに刻印があったとしても、見つかったのが不法使用だから……すぐ調べられる。その時間は文字通り神速……」
「つまりは、あってもそれほど時間稼ぎにならない、ってことだ」
 リオンが箱に寄りかかりながら吐き出した。なるほど、とルクスはオーブメントを箱に返す。そんなやり取りをなんとなく聞きつつも、ユリアは続いている尋問を見ていた。切れ切れに聞こえてくる船長の声から、この後上流で取引があるということを理解した。
「……」
 無言で立ち上がり船長のところへ行く。
 大して見栄えのする男ではない。ごく普通の漁師といった装いで、みっともなく出た腹といつ剃ったか判らない髭。苦労はしたのだろうが、だらしなく弛緩した口元が哀れを通り越して嫌悪になるほどの。ユリアが目の前に立った時、おかれている状況も忘れその目に野卑な光が宿ったことは見逃していない。
「……本当に、この後取引があるんだな?」
「う、嘘じゃねぇよ姉ちゃん……そうでなけりゃあんなに必死になって逃げねぇよ……」
 縋るような目。とっさにティアナが動きかかったがユリアに制される。そして何かを期待してか、自分を見上げてくる男を冷たく眺めた。
 ややあって立ち上がる。
「……拘束を解除。捕らえたもので動ける人間がいるなら三人ほど放せ。残り人員は……そうだな……これをつくる工場か何かがあるはず。それを聞き出せ」
「艦長! どういうおつもりですか!」
 エコーが声を荒げて噛み付いてきた。予想はしていたので驚きはしない。逆にお前も行くかと問い返してみた。虚を付かれ黙る。
「全く……こういうことをする為の実働部隊がいるというのに」
 テニエスが言っても無駄だとエコーを下がらせた。
「自分が行く……としたいのですが……無理ですか?」
 頷くユリア。艦を預かるものとして不適格な行動をしようとしているのは判っている。けれど抑えられないのだ。
「そう仰ると思っていました。ですのでこれを」
 差し出された円筒形の何か。
「発煙筒です。かなり激しく火も噴出すので使用時にはご注意ください」
「副長……」
「艦長。何を思ってこの場から離れ、貴女の独断でその先を見ようとしているかは知りません。けれど、この艦は貴女の艦。いるべき人間は貴女。それだけはお忘れなく」
「……すまない。心得た」


 薄闇の湖面を無粋なエンジン音が割る。使い物にならない砲座横でユリアは立つ。アルセイユの明かりが遠く、遠くへ離れていく。船を動かしている船長には部下が二人見張っている。妙な行動をしようとすればすぐ拘束されるはずだ。
「……?」
 アルセイユの光点が空へ舞い始めた。一定の距離を開けてついてくるつもりらしい。現在は妨害波も解除しているので、その気になればこの船から連絡は取れるようになっている。
 とは言え、元々はあの船長の船だったのだろう、見慣れない砲座がある以外は普通の漁船とかわらない。当然通信機器も民間並でしかない。出力の低さをカバーできるぎりぎりの距離を飛ぶしかなかった。
「以前定期便に乗ったときも思ったが、いかに普段自分が恵まれた環境で飛んでいるかがわかるな……」
 水しぶきを上げ、航跡を残しながら船は行く。やがて本来入るはずだった支流に辿り着いた。砲座から移動し船長の真後ろに立つ。
「この先は滝があるはず。どうする気なのだ?」
「へ、へぇ……。滝まで行かず、脇に入るんで」
「……」
 地図を思い出すがそんな支流はあっただろうか。その間にも比較的広い川をさかのぼり始める。ちらりと後方を見ればアルセイユの光は全て消えていた。
 賢明な判断だ副長。
 本当に仲間となるには危機を乗り越えるのが一番早い。ずいぶん慣れたとは思うが、見ているとやはりどこかでギクシャクした部分が出てくる艦橋の面々。これを終わらせればそれも少しはなくなってくれるだろうか。
「そうなったら、私はもうあそこにいなくていいのかもしれないな」
 一人一人の能力は高い。そんな部下に対して指揮をとっていると、不意に自分はあそこにいる価値があるのかと思う。アルセイユに乗るようになってから常に付きまとう疑問だった。それでも皆は己を欲してくれている。
「至らない上に無茶なことをする艦長ですまない皆。だが、どうしても動かずにいられなかった」
 風が強くなってきた。川岸に植えられている木がその枝を大きく揺らしているのが判る。エンジン音より葉が擦れる音の方が耳につく。おどおどと舵をとる船長を見ながら、そっと両手を強く強く握り締めた。
 稀に今と同じようなことがあるが、一度も自分が出たことはない。潜入制圧に特化した部下たちに任せていた。現在同行しているのもその部隊から選抜してきている。遠い空に輝く星を見、何故だろうと考えた。考え込むでもなくすぐに答えが出る。
 理由は二つ。現在なら副長が艦の指揮を取れる。元々最前線にいたいのだ。椅子を暖めている職責は肌に合っていない。もう一つは。
「貴方はきっと望んでいないだろうけれど、それでも理解、してくださいますよね?」
 自分がこういう性格であることは、嫌というほど知っているはずだから。
 ずっと望んでいた。あの日、あのホテルで正体不明のオーブメントを見たときから。自分の手でどうにかしたい、と。だから特別チームが編成されているにもかかわらず、自分の情報網まで使って情報を集めていた。時にはカノーネに頼んだこともある。何も言わず受けてくれたが、聡明な彼女のことだ、ユリアの本心などわかっているに違いない。
『はいこれ。こちらで判る限りのことを網羅していると思うのだけれど。……まったく、これ以外のことは嫌になるくらい素直なのに、どうしてこの件だけは意固地になるのかしらね』
 データを渡しに来たカノーネの言葉が不意に思い浮かんだ。確かにな、と肩を竦めた時船のスピードが落ちた。そのまま水際に建てられている小屋へ寄った。
 来たか、とかぶっていた帽子を深くかぶりなおす。もちろん普段のベレーではなく捕虜たちから借りてきたものだ。服装も私服と変わらず。部下たちも同様、あとは暗闇がどれだけ自分たちに味方をしてくれるか。
 エンジンが完全に止まり、ふと滝の音がしていることに気がついた。確かに滝の手前だ。小屋は何の変哲もない小屋。付近に散見する人家もあり、昼間は釣りや水遊びなどで人が集まっているだろう、そんな普通の小屋だ。周りの気配からすると大きな木が何本も生えている。空からでは見つけにくいところだった。
「だいたいは把握していると思ったが、夜に人がいなくなるところはどうしても落ちるな……」
「艦長、中に誰かがいるようです」
「ああ」
 そっと近寄ってきた部下に耳打ちされる。言われるまでもなく気がついていた。明かりはついていないが、閉まっている扉の向こうから何がしかの気配がしている。ふと視線を感じて見回せば船長がおどおどした表情でユリアを見ていた。黙って頷くと観念した様子で戸を叩く。
(……記憶の残像は)
「黎明に溶ける……」
 やや怖気づいた声だ。気付かれはしないかと体を固くしたがすぐに開いた。まず船長が入り、続いてユリアと部下が箱を持ち込む。そして解放してきた捕虜をはさみ、しんがりはまた部下たち。戸が締められたのを確認して、室内に小さな明かりがともった。
「遅かったではないか」
「へ、へぇ……ちょっと……」
 蝋燭を持った男に不満そうな声をかけられ船長はしどろもどろになる。
「……銃撃らしき痕があるぞ。何があった?」
 窓から船の様子を見ていた男が戻ってきた。
「ああ、いやちょっと……振り切ってまいりやした」
「商品はこのとおり」
 何かを言おうとする船長の後ろに立ち、箱を前面に押し出しながら部下が口を開いた。ユリアはそれを見ながら相手の様子を確かめる。
 身なりはそれなりにいいほうだろう。周囲についているガードは五人から六人。外にまだ待機している可能性はある。それとは別の気配が数人分。案外に広い小屋で、揺らめく炎が届かないところははっきり判らない。
「改めさせてもらう」
 向こうから一人、蓋を開く。オーブメントの山から一つ取り出し、蝋燭に近づけた。内心ユリアはどきりとした。上は例のオーブメントだが、下には自分たちの得物を入れてある。
 取り出したオーブメントを蝋燭を持つ男に見せた。満足げに頷き、指を鳴らす。その音にしたがって二人、また進み出てきた。一人の手には鞄、もう一人は檻を押してきている。
「いつもの報酬だ。5万ミラと、女三人」
「へへっ……いつもいつもすいやせん……」
 女三人。それは何か。檻の中、よく目を凝らせば確かに人影らしきものがある。このやり取りに全く気を止めていないようで身じろぎすらもしない。諦めきっているのか。それとも眠らされているのか。眠らされているのならばまだいい。諦めきっているのならば、それ相応のことをされたということだ。
「……下衆どもが」
 低い低い声に空気が変わる。視線がユリアに集まった。舌打ちをした部下が押さえにかかるが簡単に振り払う。オーブメントの入った箱を蹴ってその向こう側にいた男の襟元を掴む。そのまま申し訳程度におかれていた調度品に容赦なく押し付けた。
「貴様……この国で、この街で。幾度繰り返した?」
「くっ……はぁっ……」
 片手で吊り上げられ、首が絞まって何か答えるどころではない。一瞬何が起こったか把握していなかったガードたちだが、雇い主が明らかに泡を吹いているのにようやく気が付き、いっせいに飛び掛ってきた。


「大丈夫かな、艦長……」
 照明を落とした艦橋。計器の明かりに照らされてリオンが呟く。他の面々は何も言わないが、ぽっかりと空いた艦長席を気にしていないものはない。エンジン出力は最低で、機関長には悪いなと思いつつテニエスはモニタを眺めていた。
(まったくよう。艦長並にややこしいこと言いやがって。出力は上げるな、音も出すなって一体どういうこったよ)
「この船がついてきていることに気が付けば取引相手も警戒するだろう。より一層危険になる」
(そりゃな。相変わらず無茶してるこって、我らが麗しのお姫様は)
「ふふっ」
 完全に同意だ。船を預かるものの自覚はあるのに、何故危機へ飛び込もうとするのか。
(まぁとりあえずこっちはこっちでやってるからな。後で思いっきり全開にさせてくれ。ストレス溜まってしかたねぇ)
「艦長に談判してみるよ」
 通信が切れて、小さなソナーの音が聞こえるだけになった。エコーが前方を行く船を落とさないようにと、食い入るように端末を眺めている。その指示に従い、細かくルクスが軌道修正をしていた。
 いい部下だ。そしていい艦長だ。変わらない表情の下、テニエスはそんなことを思った。准将には今二歩ほど及ばないが求心力がある。
「もしかして艦長……死ぬ気なんじゃ」
「……馬鹿なことを言わないで頂戴」
 端末を眺めたままエコーが低くさえぎった。
「でも、あんな場に行きたいなんて初めてじゃないか」
 たまらずリオンも言い返した。
「あの思いつめた表情……嫌になるくらい綺麗だったよっ!」
「そうね……うん、綺麗だった」
 ずっと黙っていたティアナ。合図があればいつでも応戦できるようにと、指はずっとパネルの上に置いたままだ。
「でもね、私気が付いたよ。最近艦長が綺麗だった理由」
「なんだっていうんだよ!」
「そんな大きい声で怒鳴らないでよ。すぐ隣だから聞こえてるってば」
「わ、悪かったよ」
 顔をしかめて手元のモニタに手を置いた。
「……で?」
「ああ、うん。前から艦長綺麗だったけど、なんていうのか、はかなーい感じあったじゃない。華は散る前が一番綺麗だ、とか、火は消える前が一番輝くとか、そんな感じの」
 一旦言葉を切って艦橋を見回す。ルクスが前を見ながら頷き、そうね、とエコーも返した。テニエスは何も言わず自席でやり取りを眺めている。
「だけど最近は違うと思うんだ。あんまりちゃんといえないんだけど……そこに生気が吹き込まれたというか」
 そうかもしれない、とテニエスは思う。副長として補佐する前に直接の面識はないが、軍の祭典などで遠目にみたとき、ティアナと同じような印象をもった。確かに親衛隊としての責務に燃えていた、やる気のある人間に見受けられたが、どこかしら作り物のような感じもした。
「どんなお化粧よりさ、本人が生きつづけたいって思うことが、一番綺麗に見えるんだ」
「だから、艦長は死にに行ったんじゃないって?」
「うん、私はそう信じたい」
 明るく笑うティアナにどう反応したものかとリオンが天井を仰ぐ。
「俺もその意見に乗ったよ。何が理由か知らないけど、綺麗な艦長は嬉しい」
「……正直ね」
 悪いか、とエコーに食って掛かるルクス。
「……悪くない。ええ、全然」
「そうなった理由はなんとなくわかるんだけど、やっぱりわかんないのよねー。想像がつかない」
「……私も想像、出来ないわ。……船が止まったみたい」
「そうか。ではしばし周囲を旋回する」
 いよいよだ、と息を飲みながらルクスは舵を操った。


 生来からそれほど物事に執着しない性質で、誰かに対して、憤怒と呼べるほど強く昏い怒りを覚えたことはない。我を忘れその感情の迸りに忠実に行動し、その度に自滅していった人間を何人も見た。自分はそんな感情には無縁であると、頭のどこかで思っていた。だがそれは間違いだった。
 この体中を駆け巡る熱さはなんだろう。足の先から髪の毛の先まで、何かで一杯になったような錯覚。世界から音は抜け落ち、ゆっくりと自分に飛び掛ってくる集団を見た。
「ふんっ!!」
 幸運だったのは格闘するかもしれないと、金属を縫いこんだ手袋をしてあったユリア。不幸だったのは、帽子の下から出てきた女の顔を見て、甘く見てかかってきたガードたち。冷静に考えれば、雇い主を片手で吊り上げられる膂力があるのにだ。
 常には無意識にする手加減がない。その拳が一人の顎を砕く。おそらくガードたちも、幾度も修羅場を踏み越えてきただろうが、怒りという内燃機関を抱えたユリアの前に気圧された。部下たちですら近寄ることの出来ない気配が小屋の中を支配している。それでも仕事は仕事とばかりに別の男が飛び掛ってきた。軽々と避け、空いた胴に一撃。妙な声を出したところにもう一度。
 逆側から飛び掛ってきた相手は足で応戦。長く、しなやかで且つ強靭なバネに鉄板入りの軍靴。普段は狙わない急所を穿った。
「か、艦長……」
 部下の一人が、その痛みを想像して青ざめた。穿たれた男はもはや立つことも敵わないようで、床に転がって気を失っていた。今はまだ見境はあるようだが、いつこちらに飛び火してくるか知れたものではない。
「あんなに我を忘れてる艦長なんて、初めてだ」
「うん……近寄らないようにしよう」
 部下は手分けをし、倒れて動けない人間を小屋の外に出し縛る。檻の中にいた女性たちを出し、命に別状はないことを確かめた。箱から散乱しているオーブメントや武器を拾い上げていると窓が割れる音。手が回らなかった何人かが、勝ち目なしと見て逃げ出した。やはり外にも待機していたと見え、それなりの数のようだ。
「させるかっ!!」
 ポケットにあった発煙筒が手に触る。激しく火を噴出す、というテニエスの言葉が一瞬頭をよぎった。けれど躊躇いはない。息を吐いてピンを抜き、思い切り遠投した。窓ガラスを割り勢いが多少そがれたものの、それは逃げていく集団の先に落ちて盛大に煙を吐き出す。勢い余って突っ込んだ先頭が火にまとわりつかれた。
 巻き込まれてはたまらないと引き返してきた男たちの前に、ユリアは駆けた。煙で目をまともに開けられない男たちは必死で応戦しようとするが、得物を探し出すこともままならない有様。結局慣れ親しんだ得物を出す間もなく沈黙。細身の体のどこにそんな力があるのか、自分より大きい相手を軽々と投げ飛ばした。
「……艦長って、近接格闘成績よかったんだっけ……」
「ずば抜けて、ってほどじゃないけど、常に上位に来てるぞ……」
 煙に辟易しながら沈黙したガードたちを引き摺る。不意に小屋の方を向いて歩き出したので、慌てて道を空けた。その先には最初にユリアが吊り上げた男。縄に縛られた彼をもう一度吊り上げ、投げ捨てた。
「貴様に売られた女性たちも! 貴様が流したオーブメントで傷ついた人たちも! 消えない闇を抱えることになるんだ!」
 過去、自分に降りかかったこと。今、傷ついて涙を流す人々、倒れる人々。その全てを背負った? 違う。全身が憤怒に包まれているが、頭の一箇所でこれは自分の我侭だと警告を発していた。
 たった一人。女王やクローゼや、この国自身のことすら脇に追いやってしまった存在の為。そのとき初めて、自分のためにユリアは戦っていた。ここで一人暴れてもミュラーの災禍が紛れるはずはない。だから自分の我侭。
「駄目です艦長、これ以上は!!」
 炎を見つけて急行してきたアルセイユから部下たちが飛び出してきた。
「いけません! お気持ちはわかりますが、これ以上は貴女が傷つきます!」
「憲兵の仕事です! お願いです艦長、しっかりしてください!!」
 何人かにいっせいに呼びかけられ、ようやく体から力が抜けていった。周りを見渡すとあちこちでうめく男たち。自分の体を見回してみると、服のそこかしこに鉤裂きをつくり、酷く打身になっているところや火傷らしき痕もある。
「……」
 一瞬、何をしたのかを思い出せなかった。鈍く痛む頭にしばし思いを廻らし、のろのろと空を見上げる。十六夜の月は艦のサーチライトに多少その光を弱めていたが、柔らかくユリアを見下ろしていた。
「……貴方の、気配がした……」
 ただ一筋、その蒼い双眸から下り落ちる雫。初めこそ本当に怒りに流され拳を繰り出していたが、途中から忘れたくとも生涯忘れ得ぬ気配を感じていた。
「軍人として……一番やってはいけないことをした……咎めに来られましたか?」
 貴方に咎められるのならばそれは仕方がないこと。貴方を名目に、自分は力を使ったのだから。
「艦長! 全員収容完了いたしました! 付近の火も全て消し止めました!」
「……ああ、帰ろう」
 久方振りに感じた愛しい気配がこんな時とは。
「貴方は……私の傍にいるのですね」
 離れていても、目指すものが同じならば距離は無意味。答えを返さない月から目を離し、少し冷たい夜風がいまだに熱い体を通り過ぎた。そのまま一歩踏み出したとき。僅かな木霊が耳に届く。

 無理を強いた。だが、ありがとう。

 辺りを見回しても何もいない。誰も答えない。自分の中から出てきた幻聴だろうが、それでもユリアは嬉しかった。
「……今度会ったら、ちゃんと叱ってください」
 もう一度風が吹く。どうか届けと、そっと願った。


「……アバラが折れたのが二人……顎粉砕が一人……全身打撲が五名、脳震盪を起こしてるもの多々……これはまたすごいことになっているな」
 レイストンに戻って収容した人間を引き渡す。シードはその様を見て若干あきれ気味だった。
「人死にが出ていないだけ構わないか……シュバルツ大尉」
「はっ」
「始末書は覚悟していてくれ。多分、それ以上にはならないと思うが」
「諒解いたしました」
「あと、生産工場の位置が特定できた。別働部隊が今そちらに向かっているそうだ。お手柄だな」
「いや、自分は」
「今度は売買ルートも特定できそうだな。もっとも、首謀者が気が付くのにはもう少し時間がかかりそうだがね」
 軽く笑ってユリアの肩を叩くシード。
「自分は何もしていない、か? いや、君の手柄だ。君の判断、君の行動でここまで来た。独自にこの件を追っていたのは知っていたが……」
「……中佐殿……」
「立場上直接誉められないからここは独り言だと思ってくれ」
 恐縮しているユリアをほぐすよう片目を閉じる。
「自分も、あの場にいたら同じことをしたよ。代表して拳を振るってくれたんだな」
「!」
 顔を上げる女。男は自分の唇に人差し指を当てるしぐさをした。
「そんなときもあってこその人間だ。だから誰も咎めはしない。早く自身の心に決着をつけることだ。まあ、その表情を見ると大分決着はついていそうだが……これから君と模擬格闘する時には気をつけなければならないな」
「ご冗談を……」
 何を言われるのかと思って緊張していたのが抜けていった。そこにテニエスが自分を呼びに来る。
「ああ、こちらに居られましたか」
 ユリアに近寄り、シードに目をやる。
「失礼いたしました中佐殿。少し、艦長をお借りしてもよろしいでしょうか」
「構わないよ。ただ……自分がいると言えない話かい?」
「いえいえ、そのようなものではありません」
 意味ありげにテニエスがにやりと笑う。興味深そうにシードも眉を上げた。
「先程艦長が保護された女性三人からの伝言です。『助けてくれて、本当にありがとう。今まで見たどんなに格好いい役者より格好良かった。ぜひまた逢いたい』。以上です」
「……」
「……」
 一呼吸置いてシードが大笑いをはじめた。それを眺め、自身も笑いたくて仕方ないという様相のテニエスと、どう判断すればよいのかさっぱりわからないユリア。
「あの……中佐殿……」
 ユリアのか細い訴えなど耳に入らない。テニエスは肩を震わせながらその場を辞し、変わらず困り果てたユリアが残された。
「……手段はもっとあっただろうが」
 もちろんこの後始末書を書かなければならないだろうし、場合によってはしばしの謹慎を命じられる可能性だってある。それでも、助けることができた相手がいることは事実。今はそれでいい。いつかこの日の行動に苛まれる時が来るだろうが、そのときにはきっとミュラーが傍にいる。そして、思考の底に落ちる自分を引き上げてくれる。
「ただの幻聴で大分気が楽になりましたしね。もし本当にお傍にいられるならば、してしまったことを必要以上に思い悩み、自らに責を課し過ぎることは、きっとなくなるのでしょう」
 いまだに笑いつづけるシードを横目に、小さな窓から湖を見た。もうすっかりと闇に落ちたヴァレリアは、湖面にゆれる月を映すのだった。

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