その日のことをミュラーは生涯忘れないだろうと直感した。その日は特にたいした行事があるわけでもなく、大使館にあるシリーズものを読破できるか、それに近いところまで読み終えることができるだろうと思っていた。蔵書室にいくまでに厨房があるが、別にそれは見慣れた光景であり、なんら彼の生活に影響は与えない。はずだった。
 朝から厨房が騒がしかったのは知っている。なにか急な来客でもあり、その準備に追われているだけだと気にしなかった。その嵐の様子を覗くともなく覗いた時、ミュラーの心臓は間違いなく数瞬止まったのだ。
 テーブルの上に置かれているケーキに手を出している存在。
 何か言いながら自分に寄って来ようとする存在。
 楽器を取り合って大騒ぎしている存在たち。
 あちこちを好奇心旺盛にみて回っている存在。



 その日のミュラーは特に幸せでも特に不幸でもなかったのだ。しかし、その厨房の光景は、間違いなく彼の不幸だ。
「……なんだと」
「あ、ぱぱだー!」
 パパ、と嬉しそうに寄ってくるのは間違いなくオリビエ。が、その姿は幼い。
「ぱぱ? あ、ほんとだ! あそぼうよー!」
「おにごっこしよう!」
「ボクのがっきえんそうをきいてもらうんだ!」
「それはボクのやくめだよー」
 最初に声をかけてよってきた存在をあわせたら五人。全員オリビエで、その年齢は明らかに幼い。頭がクラクラして立ちくらみを起こす。そんな様子を不安そうに見上げるちびオリビエたち。目を何度もこすり、この現実が自分の目の錯覚であって欲しいと願うが、何度見てもかわらず五人いる。
「……」
 いまや感情を面に出すこともままならない。騒ぐオリビエたちを残してその場から立ち去った。それを追いかけてこようとするが、ミュラーの発する気配に半泣きで立ち止まざるをえない。
「……ぱぱ」
 オリビエの誰かが呟くのを聞き、意地でもこの状況を打破しなくては、自分の心が崩壊するという嫌な確信をするのだった。

「し、しばらく休ませてくれ」
「別にかまへんけど……少佐さん、どないしたん?」
 見るからに憔悴している様子をみて眉を顰めるケビン。グランセル大聖堂に突然やってきたミュラーに少々驚きつつ、ただ事ではないことが起こっているのではと不安になる。
「……とりあえず、これを部屋の前に張っておいてくれ……」
「……オリビエ厳禁?」
 無言で頷くと聖堂の一室に閉じこもってしまった。説明らしい説明もなく、状況はさっぱり読めない。仕方がないので渡された紙を扉に貼り付け、午後の務めを再開しようとした。
 が、そこに子ども達がなだれ込んでくる。たいていの子どもは商業区画に行く。めずらしいことだと思ってにこりと笑う。ケビンは子どもが好きだった。己の罪を一瞬でもやわらげてくれる、そんな気がしていた。
「感心やねー。どないし……た……え?」
「しんぷさまだ! おーいみんな! しんぷさまがいるよ!」
「どこどこ!?」
「ええと、ええと、しんぷさまみっけ!」
 脳が状況を判断することを拒む。が、子どもはどんどん増え、最終的に五人になった。
「う、うそや……なんやねんこれは……」
 いいつつもわかっている。あのオリビエの幼馴染として何年も過ごしてきたミュラーが憔悴しきっている原因はこれなのだ。そして、数々の修羅を超えた彼ですら心の中の冷や汗は痛いほどわかる。
 ケビンの後ろの扉に目を向け、ここだここだと集まる。その様子を呆けたように眺めたがすぐにまともな思考を取り戻し、オリビエたちとドアの間に割ってはいる。なんなの? とといたそうな五組の目。
「……あー。少佐ちょっといまアレやから……そっとしといたげて?」
「えー。ぱぱとあそぶー」
「ぱ、パパて……」
 見ているとオリビエたちの中でもリーダー格がいるらしく、彼がこの集団を仕切っているようだった。ケビンは仕方ない、とばかりにリーダーを説得にかかる。
「ええと……少佐、今めちゃ大事な用事やってん。ほなからちょーっとそっとしといて。わかるやろ? 大事なことなんや」
「だいじなこと?」
 ケビンの真剣さを帯びた声音にリーダーも真剣そうな顔をする。それはしばらく続いたが、やがてうん、と頷いた。
「わかってくれた? ほな、一緒に大使館までもどろか」
「ううん! ままのところにいく!」
「は?」
 にこにこと笑うオリビエたちの言葉。
「ままにあそんでもらうんだ! いこうみんな!」
「さんせい!」
 勝手に盛り上がってそのまま駆け出していく。ケビンが詳細を問う間もない。
「……ママって誰やねん……」



 至極真っ当なことを呟いていればミュラーが扉を開けて顔を出した。
「奴らは何処に行った」
「あ? さあ……」
「ママ……とか言っていなかったか? 誰のことだ」
「オレに聞かれても。でも、少佐さんをパパ呼ばわりするんやったら、ママは絞られてくるわな……オレが思いつくんは、シェラさんか大尉さんか……さすがに女王様をママとは呼ばへんやろ。どっちかってーと、大尉さんの方かな。シェラさんはママいう雰囲気ちゃうし」
「……」
 何事かを考え込んでいたがそれも一瞬。ミュラーも大聖堂を飛び出していった。
「ありゃあかなり照れとるな。はよ大司教戻ってこーへんかな。ぜひとも現場抑えたいのに」
 残ったケビンは肩を震わせて笑うのだった。

 ケビンの想像どおり、ユリアは突如王城にやってきたオリビエたちに取り囲まれて身動きが取れない。
「あの……公務に支障が……」
 普段の毅然とした態度はどこへやら。心底から困った表情で集団をなだめている。部下たちはおろおろしながらも、己の上司が困りつつもやさしくなだめようとしている様子を鑑賞していた。それに気がついたユリアはオリビエたちから目を離して鋭い一瞥をくれる。クモの子を散らすように部下たちも散っていく。残ったのは、同じく困った顔をしているクローゼと、お茶をご馳走になっていたティータとエステル。
「ままー、あそぼ、あそぼ!」
「かくれんぼー!」
「おにごっこだってば!」
「ええと……」
 一人が背中によじ登ってユリアの首に掻きついている。無碍に払うこともできずクローゼに助けを求めるが、クローゼとその友人二人も異常事態に混乱していた。
「ぱぱおへやにこもっちゃったから、ままとあそぶんだ」
「あ! キミ、いつのまにままのおせなかにのぼったんだ! ボクだってのぼりたい!」
 それをきっかけに、ボクもボクもとユリアの背中に上ろうとし始める。押しつぶされないようにユリアは聞いてみる。
「あの……パパとは一体……」
 だがユリアの声など聞こえていないとばかりにやはり背中によじ登ろうとしている。どうにかしなくてはつぶされる、と本気で考え出したころ、ユリアにくっついていたオリビエの一人が襟をつかまれて持ち上がる。



「……貴様ら。何をしている」
「あ、み、ミュラー殿……」
 なぜここに、と問うより先に背中のオリビエがうれしそうにする。
「ぱぱ! あそんでくれるの? だいじなおしごとおわったの!?」
 それを聞いたユリアは瞬時に耳まで赤くなる。ミュラーも顔には出していないが、多少動揺しつつ声をあげたオリビエをユリアの背中から引き剥がした。後ろに控えていたジンにそのまま放り投げて、受け止めるのを確認せずに次のオリビエを引き剥がす。
 結局ジンが三人、ミュラーが二人抱えることになった。
「ジンさん! どうしたの、こんなところで」
 エステルの問いかけに苦笑いする男。
「あー。途中で鬼気迫る少佐に会ってな。さすがにそのまま別れるわけにはいかなくなっただけだ。ま、こんな事態になってりゃそりゃ鬼の形相だろうが」
 とりあえずこいつらをどうにかするさ、と笑いながらミュラーについていく。なんとなくその場の全員が後を追うのだった。

 帝国大使館の庭には大きな木が数本生えている。しっかりした枝に、ミュラーとジンは手分けして簀巻きにしたオリビエをつるしていく。ユリアはその様子を通された部屋から見ていたが、木に縄をかけているミュラーと目が合ったような気がしてテーブルに戻り、また顔を真っ赤にしながら頬を手で覆う。
「別におちびちゃんたちはたいした意味では言ってないわよ。いつものユリアさんらしくないわね」
「し、しかし……自分は……」
「ああもう、しっかりしなさいな。どうせいつものくだらない悪戯でしょ。……あ、もしかして」
 シェラザードは真っ赤になったままのユリアの耳元にささやく。
「もしかして、ヘンな想像とかした?」
「シェラザード殿!!」
 瞬間的に反応してくるのがわかっていたのか、ユリアがシェラザードを怒鳴ったときは人一人分の間があいていた。その様子をみて、図星だなとにんまり笑うシェラザード。カップを手に持って簀巻きの様子をみていたエステルが何事かと振り向いた。
「あははは! なんだ、ユリアさんだって普通の女とかわんないじゃない。あたしはてっきり、そういうのまったく興味ないのかと思ってたわ」
「シェラザード殿……それはあんまりだ……」
「あ、ゴメンなさいね。でも、ユリアさんはからかいがいがあるわー」
 満足だ、というように笑うシェラザードに、食って掛かる気力がぬける。のど元まででかかった言葉を飲み込んでため息をつき、冷えてきたお茶を一口飲んだ。
「おい、こんなやつがいたぞ。どうする?」
「ジンさん……って、カンパネルラ!?」
「ふふふ、僕はどこにだっているのさ。でもちょっと苦しいかもしれない」
 ジンがそのたくましい腕に、結社の一員カンパネルラを捕らえている。



「な、どうやって!」
「そこでチビたちを簀巻きにしてたんだが、どうも妙な気配を感じてな。一発ガツンと気功を打ち込んでみたらビンゴだ。こいつが落っこちてきた」
 どうしたものか、とジンはため息をつく。今のところ暴れる気も逃げる気もなさそうな飄々とした顔。エステルが、とりあえずほっぺたをつついてみるとにやりと笑うので指を引っ込めた。
「どうする? こいつ、下手に拘束してもすぐ逃げちゃいそうだけど」
「とりあえずチビどもと同じように簀巻きにするか。逃げたら逃げたときだ。……エステル、少佐を呼んで来い」
「ほいほい」
 カップを脇においてエステルは庭にでていく。シェラザードが縄とマットを持ってきて手早く簀巻きにする。ユリアは渋面でその様子を眺めるのだ。すぐさまミュラーが外から戻ってきて、カンパネルラのそばへ行く。息を整えてじっとみる。



「道化師か……貴様がここにいるということで、ある程度の予測はつくんだが……」
「なら簀巻きを解いてくれるとうれしいかな。こうぐるぐる巻きにされたんじゃ、帰還の印も結べやしない……ダメ?」
「無駄な時間を取らせるな」
「ううーん……あ、あの皇子さんは今温泉で豪遊中だから。一応報告」
「は?」
 その場の全員が口をあける。してやったり、と笑う道化師。そこへオリビエが一人飛び込んできてユリアに抱きつく。一匹逃げた! と外でジンが慌てている様子が見えた。
「まま、ままー」
「あの……」
 困った顔だが結局抱き上げ、その様子をクローゼとティータがニコニコしながら見ているのだった。

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