はじまり

 

 嵐の夜だった。
 私は知らない、この記憶。でも、この空気は、知っている。
「おいマディン、どこに行くんだ?こんな嵐の夜に…」
「いや…」
 人ならざる異形の存在から私はマディンと呼ばれた。違う。私の名は…。
 けれど、よくみると私の体はつややかな体毛で覆われていて、薄い翠の輝きが僅かに見えた。
 勝手に体が動き、集落の端の巨大な洞窟に入る。一筋の光もささないその空間を恐れることなく進む。
 心が馳せる。行かなくてはならない。そんな義務感が流れ込む。私の意思じゃないのに。
「…気のせい、か?」
 直感に疑問を挟む。闇の中、ただ激しい風が打ち付けてくる。奥には一体なにがあるのだろう。風に乗って香るこの匂いは一体なんなのだろう。良く、知っている気がするのにわからない。
「あれは…」
 勝手に体がまた動き出す。良くわかっていない状況のまま、すたすたと進む。私には何も見えないけれど、マディンと呼ばれた彼はみえているのだろうか。
 巨大な扉の前で倒れている女性がいた。かすかに開いたその隙間から入ってきたのだろう。その向こうには、嵐の森。
 人間の、世界だ。
 何を理由にそう思ったかは分からない。けれどもこの空気は人間の世界のもの。私が物心ついてから、ずっとその中で生きてきた。
「…人間、か」
 彼は扉の向こうに追いやろうと女性を起こしたが、結局集落に連れて帰ってしまった。私ではない心のどこかに、なにか良くわからない感情が生まれた。

「人間は…この幻獣界に留まることは出来ない」
 竜の姿をした長老が女性に呟く。彼女は神妙に頷いた。
「…はい。体も持ちなおしましたから…私は、ここから出て行きます」
 そうやって、マドリーヌと名乗った女性はあの洞窟の奥へ消えていった。マディンは…ただ、その姿を見送っていた。
「いいのか?行ってしまうぞ?」
 小さな妖精の姿の仲間が彼の背中を押す。仲間をじっと見た。
 行きたがっている。止めたがっている。けれど、掟が…。種族が。
 長老を見た。彼は優しい光を眼にたたえている。ああは言ったものの、マディンの気持ちも理解していた。どうするかはお前次第。そう、問いかけてきている。
「…失礼」
 家を飛び出して後を追う。闇の中を走って、初めて出会った扉の前で彼女を見つけた。
「マドリーヌ」
「…?」
「……」
 言葉が出てこない。
「私は、人間よ。貴方とは、違う」
「……」
「だから、さようなら。…永遠に」
「マドリーヌ」
 ようやく名前を呼び、彼女の手をとった。冷たくしなやかな手。
「相容れぬもの…か?……本当に、そうなのか…試しては、みないか?」
「…」
 頭の中をこだまする。試してはみないか、と。どんなに種族の違いがあろうと、分かり合えないものなどないのだと、私に向かっていわれているような気がした。

 あれから一年。
 私の心は相変わらずマディンの中。一年の歩みを、ゆっくりと彼とともに歩んできた。そして、彼とマドリーヌの間には、赤ん坊。生まれたばかりで、まだ目もちゃんと開けられない。
「どんな名前だい?」
「ティナ、と」
 !
「ティナ…。ティナ。いい、名前だ」
 寄り添う恋人たち。その間で、ティナという名の赤子が笑う。薄翠の髪がマディンに良く似ている。
 私、なんだ。私は…幻獣と、人間の、ハーフだったんだ、ね。
 ただの夢とすることも出来た。けれど、それにしてはあまりにもいろいろなことが現実的過ぎる。でもこれで自分の魔導の力に説明がついた。父親の力が私に受け継がれていたのだ。
「…今日も、嵐か」
「私と貴方が出会ったときも、嵐でしたね」
「ああ…」
 また心が騒いでいる。一年前と同じように。
「嵐のときは空間が揺らぐ。だから、封魔壁も開きやすいんだ…」
「そうでしたの…。私はただあの時は彷徨って…人間の世界が嫌になって、もうどうにでもなれと思っていた頃でした」
 憂いを帯びた目を伏せる。そこに仲間が駆け込んできた。
「人間が、人間が俺たちを狩りに来た!!」
「!」
 ざわり。嫌な空気。マドリーヌがだまりこむ。マディンは知らせに来た仲間に彼女と赤子…私を頼んで封魔壁に通じる洞窟前に来た。長老が険しい顔つきで立っている。その周りには武装した兵が倒れていた。
 帝国兵…。
「長老!」
「封魔壁をこちらから強制的に閉じる。そうしなければ、我らは滅亡だ」
 風は幻獣界から人間界に向かって吹き始めた。
「…この術を使えるのも、もはやわしだけになってしまったか」
「長老…」
「マディン、お前は他の仲間に家にいるように伝えろ。人間達ぐらい、わしの力でどうにでもなる」
「わかりました」
 そんなにもともと多くない人口。数分後にはまた妻と子のもとに戻った。
「…外に、出るなよ」
「貴方…」
 心配そうに様子をうかがう。
「……お前が、あいつらを連れてきたんじゃないのか?」
「おいっ!」
 そこに残っていた仲間がマドリーヌに向かって辛辣な言葉を吐いた。たまらずマディンは向き合う。
「なんてことを言うんだ!おまえは、マドリーヌがそんな…人間に見えるのかっ!」
「わ、悪かったよ…俺だってそんなこと思いたくない。でも、そういう可能性だってあるかもしれないじゃないか」
 今までになかったことが起きたとき、人にその責任をなすりつけようとするのは、人間も幻獣も変わらないらしい。だからマドリーヌは子どもを抱えて家から飛び出した。
「マドリーヌっ!!」
 慌ててマディンは後を追うが、産後なのにもかかわらずマドリーヌの足は速い。
「おいマディン、もう壁はしまってしまうぞ!戻れなくなる!」
 長老が後ろで叫んでいた。そんな声も聞こえないとばかりに妻をさがす。追いついたのは閉まりつつある封魔壁の前。
「うぬぬ…。こんな宝の山を目の前にして…」
 見ただけでその本性がわかるような男が壁にしがみついていた。そこから数メートル戻ったところでマドリーヌが座り込んでいた。
「マドリーヌ…帰ろう」
「マディン…」
 涙など簡単に飛んでしまう風。ともすれば、大人ですらはじき出してしまう強い風。だから。赤子など、言うまでもない……。
 抱えている力が弱くなったのか。マディンの顔を見て安心したのか。はっきりとはわからないけれど。子どもは、小さな私は、風に取られて壁の外に。
「ティナ!!」
 母親は悲鳴を上げ、自分も外に走る。つられてマディンも走った。
「ふぅっ!」
 幻獣界に比べて重い空気。体にまとわりつく。たまらず膝をついた。
「…ティナ…どこ…?」
 涙でかすむ目で必死に探す。しかし、先に壁にかきついていた男に見つけられた。
「…ほう?」
 興味深そうに子どもを見る。…どこかで、見た顔。ガストラ皇帝だ。
「返して…私の、あかちゃん…」
「お前は幻獣界から…となるとこの子どもは…」
 にやりと笑う。
「返して…」
「やかましい!」
 動けない母親を足蹴にし、高笑いを上げながらその場を去る。マディンは気を失い、兵隊たちに抱えられ、その後を追うようにして連れて行かれた。
「……返…して…」
 母親の声は次第に弱まり…やがて聞こえなくなった…。

「…」
 ゆっくりと開く視界。汚れた天井。そして、心配そうに私のそばにいるエドガー。
「…ティナ?」
 そっと呼ぶ声。私かどうか、確認をしているような。
「…エドガー…みんな」
 体を起き上がらせる。視界に入る私の手は朱鷺色に包まれていた。
「私……」
 一体どういえばいいのか。そう案じていると、ベッドの上に置かれていた緑色の宝石が目に入った。手にとってみると、中で炎が揺れている。
「これは…?」
「ああ。ティナは、知らないんだな。これは…魔石だ。幻獣が死して、そしてその力が結晶化すると」
「魔石…?」
 父は幻獣だった。ならば、この宝石は。
「…父さん?」
 初めて父と呼べるものに出会った。人ではないけれど、思い描いていたものではないけれど。それでも、私はこの人がいたから、ここにいる。
「心配かけて、ごめんなさい」
 周りを見回す。知らない顔が一人と、いなければならない人が一人足りない。どれだけの時間が経ったかはっきりとわからないけれど、私を探すためにみんなが尽力してくれたことは痛いほどわかる。
「私は、もう大丈夫…」
「ティナ…君は…」
 ロックが不安そうに私を見ていた。
「うん…父さんが教えてくれた。私は、幻獣」
 その場にざわめきが走る。
「正確には、幻獣と人間のハーフなの。だから、最初から魔法が使えた」
 この世界では異例の存在。でも、そんなのは前から知っていた。異例でも、自分がどういう人間なのかをはっきり理解できた。それだけで、私に何か新しい力を与えてくれる。
「ティナ、立てるかい?」
 マッシュが私を支えてくれた。こうやって地面に立つだけのことだけど、それまでと違う気がする。
「うん」
 しっかりと踏みしめながら頷く。
「私も、戦う。戦わないと、いけない」
 平穏を奪われた母のため。命まで奪われた父のため。そして何より、意思を奪われていた私のため。
「へぇ。なかなかいい感じの女だな」
 知らない顔の人がにやりと笑った。顔に無数にある傷が、彼の勲章だというように飛び込む。
「あなたは?」
「俺様か?俺様はセッツァー。ティナっていったっけか。よろしくな」
 笑いながら利き手を差し出してきた。私も、その手を握り返す。

 あなたは、世界に愛されながら生まれてきたのよ
 そのことだけは、忘れないでいて

 遠い昔の母の心が、今私に届いた気がした。

TO BE CONTINUED


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