兄弟
渡り鳥が目の高さを飛んでいく。ここで暮らし始めてからもう何年になるだろう。厳しい修行の中で掴んだ力は、日増しに自分の中で強くなっていく。
「師匠、薪、集めてきました」
いつものように簡素な小屋の扉を開ける。背負った薪を下ろし、次の用事に取り掛かろうとした俺だったが、師匠の声がしない。
「師匠?」
妙だ。今までこんなことなどなかった。裏で兄弟子に稽古をつけている様子もない。
「…」
静まり返った小屋の中を静かに歩く。生臭い…血のにおい。
「師匠!!」
いつも師匠ダンカンが座っている椅子は血塗れ。師匠自身はどこへ行ったか。
「どこへ…一体何が…!」
俺は必死で探した。そう遠くへは行っていないはずだ。
「ししょおーっ!」
こだまが帰ってくるだけの山並みが、これほど憎らしく思えたことはない。しばらく走り回っても見つからなかった。まさか…川に流された…?
よく見てみればかすかに足跡。それをたどっていくと、いつしか山道まで出てきていた。
「はぁっはっはっは…!」
突然の笑い。この声は、兄弟子バルカスだ。声のするほうへ走ると、兄弟子と誰かが戦っている。
「あ…あれは!?」
兄弟子の相手の方を見て驚いた。男二人と女一人の三人組だ。女ともう一人の男は知らないが、後の一人はよく知っている。
「兄貴!」
しかし変だ。兄貴は絶対に、こんなところで兄弟子と戦っているはずのない人間だ。彼の居場所は砂漠の真ん中の玉座のはず。
変だといえば兄弟子も変だ。全身返り血を浴び、白かった道服が真っ赤になっているのだ。兄貴たちはそんなに怪我はしていない。とすれば…。
体の反応はすばやかった。止めを刺そうとするバルカスと兄貴たちの間に滑り込む。
「…マッシュか…っ」
「バルカス…」
ゆっくりと振り返りながら兄弟子…いや、バルカスをにらみつける。
「何故…何故殺した!?何故、あなたの父である師匠を殺した!?」
奴の起こしたかまいたちが俺の皮膚を切り裂く。
「何故…何故だと?たわけたことを聞くではないか、マッシュ!」
狂気にぎらついた瞳でねめつけるが、そんなものでは動じないぞ。
「オヤジは…あのくそオヤジは、お前に奥義を伝授するとぬかしたっ!実の子であり、お前なんかより何倍も素質を秘めている、俺ではなく!」
「そんな…そんなことのために…師匠を」
「そんなことだと?お前みたいな、どこの馬の骨とも知らないような奴に、俺が長年望んだものを掻っ攫われるんだ!これが、許せるかっ!」
一際強く風が吹く。兄貴たちは飛ばされないように、近くの岩の陰に入っているようだ。よかった。これなら俺たちの争いに巻き込まれることもないだろう。
「戯言はお終いだマッシュ。お前がいなければ、何もかも俺のものだ…死ねっ!」
「バルカス…師匠は…」
「うるさい!これは、俺がお前や師匠と決別するためだ!」
俺の言うことなど聞く耳も持たず大技をしかけてくる気だ。仕方がない。こうなったらやるしかない…のか。
腰を低く落とし、相手の生み出す風に耐える。これさえ乗り切れば。乗り切った力を一気に解放すれば。
「ふ…ふははははは!師匠よ!お前は間違えた!お前が選んだ男は、この俺に勝てなかったぞ!」
ようやく収まりかけてきた風の向こうから勝利の声が聞こえてきた。しかし、俺はまだ倒れてない。
「バルカスーっ!!」
全神経を跳躍することに集中。高く高く舞い上がった俺は、次に体の中心に力をこめた。上空で態勢を整え、まっすぐ兄弟子に向かって落ちる。俺の声に狼狽し、まわりを見ている奴は上に気がついていない。
「師匠の、仇ーっ!」
引いていたこぶしを一気に突き出す。それは、やっと俺の位置に気がついたバルカスの、眉間に命中した。
「ばっ…ばかな…」
バルカスは額から血を流しながら後ろに二、三歩下がる。足元の岩が崩れ、遥か下の谷底へ落ちていった。
「あんた…確かに強かったよ。俺よりも。だけど…」
力に魅入られさえしなければ、師匠はバルカスに跡を継がせただろう。
バルカスの断末魔の声が、遠くに聞こえた。
「お前…マッシュか?」
岩陰から兄貴と、その連れが出てきた。
「え…人なの?」
女が、いや、女というより少女といったほうがいいだろうか。彼女が驚いたように言う。
「そうだよ。何だと思ったの?」
「だって…とっても大きな熊かと…」
「熊ぁ!?」
熊か。こいつはいい。確かに今の俺はそう見えても仕方がないだろう。山暮らしも長いからな。
ひとしきり笑うと俺は一行を見まわした。
「懐かしいな、マッシュ。何年振りだろうか」
「さあねぇ。山にいると、何年経ったかわかんねぇからな。でも、兄貴も元気そうで何より」
「おいエドガー。こいつは?」
バンダナを頭に巻いた男が口を挟む。
「ああ。これはすまない。彼はマッシュ。私の、双子の弟だ。で、マッシュ」
俺のほうを兄貴が向く。兄貴、ますます格好よくなったよな、なんて考えてみる。
「こちらがロック。リターナーとの連絡役をかってでてくれてる。そして、彼女はティナ。理由あって一緒に行動しているのだ」
それぞれ紹介してもらい、簡単に挨拶をした。
「で、兄貴。何でこんなところにいるんだ。まさか王様辞めてきたのか?」
「違う違う。リターナー本部に向かっていたのだが、ここでさっきの男に会ってな」
「そんで、難癖つけられてよ。なんだかんだごちゃごちゃしてるときにあんたがやって来たんだ」
ロックと紹介された男が兄貴の後を取って説明した。
「ともかく助かりました。さっきの人、とても強かったので…。でも、あなたも強いんですね」
ティナと呼ばれた少女がそんなことを言う。いい子だよな。でも照れくさいから豪快に笑っておこう。
「ところでリターナー本部って…フィガロ、ついに帝国と決裂?」
「ああ。そうだ」
「なるほど。やっとフィガロも動くか。門外漢ながら、一体どうなることやらと思ってたぜ」
そこまで言って少し考えた。師匠も兄弟子ももういない。ここでまた一人修行をするのもいいだろう。でも、せっかく兄貴に会えて、帝国と戦おうとしている。
「じゃあさ。俺も行くよ。一通り修行も終わったことだし。帝国の奴らにはかなり嫌がらせされてるから、一矢報いてやるのも面白い」
山で修行といってもずっと山に住んでいるわけではない。寒さが厳しくなる冬にこのコルツ山にいると、どんなに暖めようがしばらくすると動けなくなるぐらい寒くなるのだ。だから冬はサウスフィガロの、師匠の家にいる。
街にいればいろいろなうわさも耳にするし、何より港町であるサウスフィガロには、いろいろな人間も来る。もちろん、帝国兵も。
兵たちは傍若無人な振る舞いばかりで、俺も買出しに市場に出かけたときなんか、何回も難癖をつけられた。師匠の言いつけだったから騒動を起こすようなことはしなかったけど、いい思いはしない。
「そいつは心強ぇや。な、エドガー」
「いいのか?本当に」
「いいってことよ。ここで兄貴たちに会えたのも、何かの縁さ。これからよろしくな」
兄貴とロックが歓迎の表情をしている後ろで、少し浮かない顔をしているティナが気になる。けれど、何も言わなかった。
「本当にこんなところに本部があるのかぁ?」
「あるさぁ」
行けども行けども変わりばえのしない山肌に、少し俺はいらついていた。先導をするロックがのんきに返してくるのもなんとなく腹が立つ。
「まあ落ち着けマッシュ。しばらく会わないうちに短気になったな」
「兄貴こそ。やけに気が長くなってないか」
「それはそうだろう。王なぞをやっていると、どんなにいらいらしても耐えて待たなければならないことが山のようにあるから」
いちいちごもっともである。
「あの…」
「おやティナ。どうしたんだい?」
遠慮がちに声をかけるティナ。それを兄貴がやさしい声で迎える。どうも兄貴の性格は、まったく変わっていないらしい。
「リターナーって帝国に反抗しているんでしょう?」
「そうだな」
「だったら、すぐ見つかるようなところに本部があったら、すぐつぶされてしまうんじゃない?」
「なるほど。このような所に本部があるのは、利にかなっているということか。…ということだ、マッシュ」
「わかったよ。兄貴には勝てない」
肩をすくめてロックの後についていった。
「後どのぐらいだ?」
「もうすぐ。この坂を越えたところだ」
確かにロックが言ったように、先ほどまで上がってきた坂を越えると、洞穴があった。それが自然の産物でないことは、目立たないように立っている歩哨が物語っている。
「誰だ?」
俺たちの存在に気がついた歩哨が誰何の声をかけてきた。すばやくロックが耳打ちをする。なんと言っているかは聞き取れないが、次第に歩哨の顔つきが変わってきた。
「し、失礼しました!どうぞ、お通りください」
気の毒に、彼はガチガチに固まって俺たちを通してくれた。多分、兄貴がいるせいだろう。なんだかんだいいながら、フィガロはこの大陸で一番の国だから。
「大丈夫かしら、あの人」
あまりの緊張で固まってしまった歩哨をティナが心配していた。