1.大地

 

 その香りは知っていた。そこに息づく木々や生き物たちの命の香り。大地に根付く力のそれ。
「地上……だ」
 重い瞼を開けば見慣れない内装。起きあがろうとして激痛を感じ、見れば手にも体にも包帯が巻かれていた。ふれた感触では顔にも巻かれているようだ。視線を動かし軽くため息をついた。
 なにが起こったのか理解する間もなく強い力に弾き飛ばされた。それを思い出し濁った頭が一気に澄んでいく。そうだ、天使界は、師は、世界樹は。
「……どうなったんだろう」
「あ、気がついた?」
 予想もしなかった声に痛みを忘れて顔を動かす。いやまさか、地上で自分を認識できるものなどないのに。
「凄い回復力だね。最初見つかった時はもうダメだって思ったもの」
「……」
 目の前の少女は知っている。時折見かけたことのある、宿を営む少女だ。名は確か。
「私はリッカ。貴女は?」
 そう、リッカ。
「……もしもーし?」
「えっ」
「あ、ごめんね。まだちょっと調子悪いのかな。お名前聞いてたんだけど」
「あの……えと、ラーズ……」
「ラーズ、ね。そうなんだ」
 リッカは驚いたと目を丸くした。何か言いかかったものの結局それについては何も言わずに、
「もうちょっとラーズ、寝てたらいいと思う。ゆっくりしてって。部屋だけならいっぱいあるから」
 にこりと微笑んで部屋を出て行った。
 起き上がりかけた体をまた寝台に横たえながらラーズは疑問ばかりが浮かんできた。なぜ自分はここにいるのだろう。なぜ姿を見られているのだろう。天使界はどうなったのだろう。師は? 友は? 長は?
「さっぱり分からない」
 しばし考え込んだが全く見当がつかない。
「もうこれ以上考えてもきっと無駄なんだろう」
 手を動かしてみる。先ほどまであった痛みが段々と引いて来ていた。試しに包帯を取ってみるともうあまり怪我は残っていない。とはいえ腕はともかく体にも相当負担がかかっている。これではもう数日は起きて歩く事は出来ない。そもそもあまり早くに怪我を治してしまうとヒトに奇異に写る。
「……あれっ?」
 背中に当たる感触。寝台の感触。けれどそうと理解するのにしばし時間がかかった。僅かに残った痛みに顔をしかめながら起き上がり背を見る。ない。たまに横になることはあったが、生まれてからずっと存在していた自分の一部がなくなっている。
「……翼……どこ行っちゃったの……」

 世界は天使に守護されている。そんな伝説はどこにでもあり、その村、ウォルロにももちろん存在していた。それを信じているのはヒト次第ではあるが、ウォルロでは比較的信じているものが多かった。リッカとその祖父もその一員でありラーズはそれをよく知っていた。
「あの間は、そういうことなだろうね」
 名乗った瞬間にリッカが見せた微妙な表情。心当たりがありすぎるほどにある。
「こんなところにいたの。まだ完全に治りきってないんだからあんまり無茶したらダメだよ?」
 夕暮れ。毎日リッカは宿からの帰りに天使像へ祈りに来る。村に唯一の宿に旅人はほぼ皆無、それでも掃除と洗濯だけは必ず行う彼女が祈るのは平穏。
「リッカさん……また、祈りに?」
「もう日課だもの。天使様も、私がこなかったらきっと寂しく思うんじゃないかしら」
 快活に笑って像の前へ。ラーズは黙って祈りの仕草を眺める。
「よく……この上で眺めたな……」
「何か言った?」
 投げかけられた質問にドキリとする。なんでもないと手を振って像を見上げた。
「じゃあ私は行くけどラーズはどうする? もう少し見てる?」
「あ、うん、そうさせてもらうね」
「了解。あんまり暗くならないうちに帰ってきてね。夜遅くだと魔物が村の中に入ってくることがあるんだ」
「そうだね、わかった」
「……天使様、ラーズの記憶が戻りますように。……滝を見てたら思い出すかも。どこからきて何をしにいくのか、とか」
 前半は像に向かって、後半は体をぎこちなく動かすしかないラーズに向かって声をかけ、リッカは家路に付いた。今日は何のご飯を作ってくれるのだろう。そもそも食べずとも問題ないのだがそういうわけにもいかない。ヒトの食べ物を食べるのは初めてで、それでもリッカの作る手料理は美味なのだろう。
 強い水の音を聞きながら像の裏へ回る。そこに刻まれた名を指で辿り小さく溜息をついた。ヒトが刻むものではない。守護天使が変わる毎にいつのまにか書き換えられている。
「……まさかこんなことになるなんて。みんな、どうしてるんだろう」
 自分の名が刻まれた箇所を見るのをやめて滝に目をやる。リッカから聞いた話では、自分はここに落ちていたという。通りすがりの旅人が助けてくれたそうだが、その旅人はリッカたち村人が集まってきた時にラーズを渡してまたいずこかへ行ってしまったらしい。よほど急ぐ旅だったのだろう、せめて一言でも礼をいえたらとふと思う。
「……誰か来た?」
 滝の音とは違う草の音をラーズの耳が捉えた。振り向けば村長の息子だ。
「天使像に誰かいると思ってきてみればお前かよ。来て損した」
「ええと……ニードさん、でしたか」
「俺様の名前を覚えているのはいい心がけだ。この村で一番の実力者ニード様とは俺様のことよ」
「……なにか?」
「お前になんかこれっぱかりも用事はねーよ」
 不機嫌さを隠さずに吐き捨てる男。ラーズも男の意図はわかっていた。それなりの長い間、この村を守護したため人間関係は大体把握している。
「リッカさんならおうちに戻りましたよ」
「……ふん。お前、いつまでリッカのうちにいる気だよ。胡散臭い芸人め」
「……」
 ラーズの素性ははっきりしないものの、身に付けている服と特異な髪の色から芸人だという意見が村の大勢を占めている。自分では奇異に思わないがヒトから見れば芸人として納得するしかないほど奇異に見えるのかと、少しだけショックだったのが数日前。確かに天使の服はヒトの世界では見ない。
「さっさと出て行けよ」
 言い残して足早に去っていった。向けられた悪意は仕方がない。天使を信じるものが多いこの村では、天使と同じ名を持つラーズが気に食わないものも多い。名乗るのなら別の名にすれば良かったと今酷く後悔をしている。けれどこれが自分の名だ。空を舞う力も、頭上に輝くハイロゥも失ったけれど自分がこの村の守護天使だったのだ。いや、天使像の名が変わっていない以上、今現在でも自分が守護天使のままだ。
 人の気配が消えた。それでもしばらくラーズは黙って道を眺める。ややあって像に手を当てて目を閉じた。混乱したままの心を平静に。像は天使界とつながっているもの。必ず自分の声が届くはず。
 息をするように行使していた天使の力を意識して使うのは難しい。けれど思い出せ。私は天使。
「……!」
 治りきっていない傷が集中を妨げる。
「もう少し……! もう少しで何か見えそうだったのに……」
 もう一度集中しようとしたが途切れたものを再びつなぎあわせる気力がどうしても出てこない。まるでどこかに吸われているような気がする。
「こんなの……初めて」
 像を背にして座り、空を見上げる。その彼方の、どこに天使の世界があるのだろう。今のラーズには分からなかった。

 
 空に戻る術はもちろん、喪ったハイロゥと翼を取り戻す方法も分からないまましばしの時が過ぎた。ラーズはたまに、村人の前で踊るようになった。元から踊りは嫌いではない。そして、天使界に存在する踊りはヒトには奇異に映る様で、一部を除いては大いにその舞いを楽しんでいるようだ。
「今日もきれいだった。どこの舞いなの?」
 リッカに聞かれ、ラーズは言葉を濁らせる。本当を言っていいものか。
 リッカなら信じてくれるだろう。彼女の事は生まれたときから見守っていたのだから。そのころ直接の守護者は師イザヤールだったが、師の振る舞いを見逃すまいとこっそり降りてきた事もある。もちろん後できっちりと師に叱られたが。
 しかし彼女だけが信じてくれてもラーズの立場はより一層混迷するに違いない。
「どこでも、ない。かな。私が、いろんなところの踊りを見て、それぞれを取り込んだだけ」
 そうやってでまかせを言うのが心苦しい。
「へぇ。ラーズ旅人だものね。いろんなところを見てきたんだろうなぁ」
「……」
 これもまた心苦しい。幾度本当を言ってしまおうかと思ったことか。
「どうしたのラーズ? 何か悩み事?」
「えっと……」
 もう言ってしまおうか。自分が力ある天使であったころと同じ視線を投げかけてくれる少女に。
「リッカ! こんなトコにいたのか!」
「ニード!」
 突然掛けられた声には若干の怒気が込められている。天使像のある場所へ大股で歩いてきて、じろりとラーズを睨んだ。
「ニード、なんでそんなにラーズに怒ってるの?」
「……リッカ、あんたにあいたいって人が尋ねてきてる」
「ちょっと、質問に答えてないって! ……え? 会いたい?」
 男は軽く頷いてもと来た道をまた帰っていった。
「まったく……結局私の質問に答えてないし」
「私は別に気にしてないよ。それより……」
「うん、誰だろう……」
 それにニードはどこにいるとも言わずに行ってしまった。探さないとね、と二人は高台から降りると。
「貴女が……リッカさん?」
 背の高い、美人といっていい女が目の前にいる。
「ああよかった、あの男の子、いきなり走って行っちゃうんだもの……」
 恐らくニードが走り去ったと思われる方向へ女は溜息を一つ。
「あ、ごめんなさい。私はルイーダ。セントシュタインで酒場をやってるの」
「ルイーダ、さん?」
 リッカは何かに思い当たったように頷いた。
「父の、お知り合いの方、でしょうか?」
「あら、覚えててくれたの? あんなに小さかったのに」
 ルイーダと名乗った女は嫣然と微笑む。対してリッカは少し緊張気味だ。
「お父様はどちらかしら?」
「……」
 リッカは押し黙る。心配になりラーズが覗き込むと、ぽつりと呟いた。
「……二年前に、亡くなりました」
 二年前にひどい流行り病がウォルロを襲った。その時の事はラーズも良く覚えている。イザヤールが蒼白な顔をして天使界に戻ってきた日だからだ。師は何も言わず、黙ってそのまま世界樹の元へ向かっていってしまった。後からこっそりラフェットと共に追ってみたが、根元で地面に拳を叩きつけ、声もなく泣く姿をみて何も言わず戻った。
 後から知ったが、それがリッカの言った流行り病の時だったのだ。イザヤールの隙を突いて疫病がその異能を発揮し、あっという間にバタバタと人が倒れた。村の人間が一気に三分の二にまで減ってしまった。
『……あれらの疫病からこそヒトを守らねばならない。ヒトは魔物から己の身を守れるかもしれない。けれど病や怪我から身を守ることは非常に難しい生き物なのだ、ラーズ』
 幾ばくか時が過ぎ、師はポツリとそう言った。以降疫病に対して何も言わなかったが、それまでより一層見回りに力を入れていたのを知っている。
「……貴女がでてきたってことで予感はしたんだけど……はっきり言われるとやっぱりショックね。宿を立ち直らせてくれる切り札だと思ったのに……」
 ショックを受けた様子で頭を振る女。
「まいったなぁ……」
「あの……とりあえず夜も遅くなってきますし、宿に行きませんか?」
「あ、うん……」
 黙り込んだリッカの代わりにラーズがルイーダを宿に連れて行った。その後を少し置いてリッカも歩いてくる。
「……へえ、小さいのはこの村の規模からして仕方ないけど、落ち着きやすそうな宿ね」
「リッカが手入れしてますから」
 なぜかラーズが得意げになって胸をはり、リッカは照れながらそれをやめさせた。
「貴女が?」
「あ、はい。そうです」
「……」
 値踏みするように女は少女を眺める。けれどそのときはそれ以上何も言わなかった。

 次の日、少し寝坊をしたラーズは手伝いの為に宿へ向かった。リッカは日の出前からすでに旅人の為に朝食の準備をしに行っている。
「ごめんねリッカ、遅れて」
「あ、おはよラーズ……」
「あら昨日の従業員さんね? 宿泊客より遅れるのは褒められないわ」
 カウンターにリッカがいるのだが、なぜかリッカに迫るようにルイーダがカウンターに並んで立っている。
「ラーズは従業員じゃなくて、気が向いたときに手伝ってもらってるだけです」
 少し語気を荒げてリッカが口を尖らせるものの女はさほど気にしていないようだった。もう既にラーズから興味は引いていてリッカを見つめている。
「だからリッカちゃん。どうかしら?」
「先ほどからお断りしておりますが……」
 朝には似合わぬ妖艶さでもって少女に迫るルイーダ。リッカは半泣きでちらちらとラーズを見てくる。
「……どう、したんですか?」
 助けを求められれば無視はできないのがラーズの本領。ルイーダの様子に押されつつも問い掛ける。
「見てのとおりスカウト」
「……ええと。客観的に見ると、宿屋の従業員にお客が文句をつけているようにしか見えないんですが……」
「言うわね貴女も」
 率直なラーズの意見に苦笑いをするルイーダ。次いでリッカから離れた。
「昨日一晩ここでお世話になって決めたのよ。伝説の宿王が亡くなられた今、その魂を受け継いでるのはこのリッカちゃんだってはっきり分かった。ぜひともその力を、セントシュタインの宿に生かして欲しいの」
「セントシュタインって……峠を越えた先の、大きな街?」
「そう。あの辺りは国の中心地だから旅人は多いんだけど宿場も多くてね。宿王がいらっしゃった頃はともかく、今は他の宿に紛れ込んじゃって閑古も閑古、もう従業員切らなきゃいけないくらいの事態になってる。セントシュタイン建国からあるって言われてる、歴史ある宿だけどそれだけじゃお客さんは来てくれないのよ」
 溜息と共にルイーダは目を伏せた。リッカは沈黙を保ったまま。
「それで……リッカを?」
「ええ。この小さな宿ですらこんなに居心地よくすることができるのよ。ウチに来てもらえばきっと、もっともっとよい宿にしてくれると私、確信してる。そのほうがリッカちゃんもやりがいあるんじゃないかと思う……」
「勝手なことばかり言わないでください!」
 カウンターに勢いよく手をつきルイーダの言葉を止めたリッカ。彼女がここまで激しく感情を表すのも滅多にない事だとラーズは場違いな事を思った。
 あっという間に宿を飛び出し見えなくなったリッカ。どうも滝のほうに行ったようだがルイーダをそのままにしておくのも忍びない。迷っているラーズを他所に女は軽く肩を竦める。
「多感な年頃だものね。私にもそんな頃があったわぁ。あの頃は私も……」
 これは間違いなく長くなる。リッカのことは気になるが一人にしておく方がいいかもしれない。怒涛の如く喋り始めたルイーダの際限ない話に付き合いながら、ごめん、と心で謝った。

「ふぅ疲れた」
 何も言わずにラーズが差し出した水を一杯のんで伸びをする女。外は夕暮れ、オレンジの光が窓の一つ一つから来訪を遂げている。
「私、リッカを探してきますね」
 いまだ、とばかりに客を振り返らず宿を出るラーズ。かつて冒険者だったらしいルイーダの話は機知に富み、緩急つけて話される冒険譚は面白かった。面白かったのだが、話し始めると止まらないのだけは困る。宿が見えなくなったところで背伸びをし、こわばってしまった筋肉を伸ばす。
「……こんな感覚も、慣れる来ちゃった」
 そもそもヒトに付き合ってじっと何時間もひとところにいるということなどなかった。「筋肉がこわばる」などということを自分が経験するようになるとは。しかもそれに慣れるとは。どんどん自分が天使から遠ざかっている。喪っていくものを思い、夕闇ということもあいまって心が張り裂けそうになった。
「夕暮れの赤。ヒトはこの赤に郷愁を感じる。天使もまた、その手から零れ落ちたものに思いを馳せるもの?」
 それとももう自分はヒトになってしまったのだろうか。答えのない問いを続けるしかない。
「……あれ?」
 天使像とは滝を挟んで逆側の滝への道近くにぼんやりと光るものがある。どこかでこれとおなじものを見た記憶があるが思い出せない。警戒しながら近寄る。
「……」
 懐に忍ばせてある短剣を握る。もしも魔物であるなら自分がどうにかしなくてはいけない。
 一歩。また一歩。それの輪郭がはっきりしてくるにつれ思い出していた。
「……幽霊さん……」
『おや? 貴女様は……』
 幽霊がラーズの事に気付いて目を丸くしている。
『天使様……この村の守護をされるはずの貴女様がなぜそのようなお姿に?』
「いろいろあったんですが……貴方は?」
 冴えない男の幽霊だが言葉の端々に客商売をしていた風な名残がある。
『自分ですか? 自分はリベルト。リッカをご存知でしょうか。あれの父親です』

TO BE CONTINUED


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