「い、一大事だ!」
 長い長い廊下をドスドスと走る音がする。この間も同じ事をして床が抜けたのだがそれを覚えていないのだろうか。溜息をついた隙にものすごい音が聞こえた。
「……やったのね」
 びくりと本を持つ両手が震えた。少女は年に似合わぬ憂鬱な表情で呟く。様子を見にいった方がいいのかそれともここで嘆いていた方がいいのか。少し考えた後椅子から立ち上がった。
 音もなく歩き、いまだ喚いている廊下へ。ここまで騒いでも近所から文句を言われないのはひとえにこの敷地の広さのおかげだ。広い道場と広い庭がこんなところで役に立つとは。決して目の前で、両足をそれぞれ廊下にあいた穴に取られて身動きが取れない男の人徳のおかげではない。
「おおっ、キリカ! 一大事だ!」
「……騒がなくてもわかるよ」
「なんでお前はそう冷静なんだ! 騒げ、驚け! 一大事!」
「……」
 めまいがする。こんな落ち着きのない中年男が自分の父親だとは認めたくない。とはいえこればかりはもうどうしようもないのだ。
「何も聞いてないのに何に驚けって言うの?」
「うっ!」
 父リュウガは一瞬怯んだがすぐに大仰に手を振り始めた。
「聞いて驚けキリカ! ついに弟子が一人もいなくなった!」
「……あっそう」
「な、なぜ驚かん!」
 父は心底から判っていないという風に少女を見上げる。キリカのほうはもはや何も言うつもりはなかった。
 弟子がいなくなった? そんなことはここしばらくの状況をみていれば嫌でもわかる。近所の友達はいつ誰もいなくなるか賭けてすらいたのだから。たまたま学問所帰りのキリカがその現場に出くわし、あろう事かキリカ自身も賭けに参加したほど。
「三日ばかり予想より早かった」
 冷静にあの賭けの事を思い出す。ちらりと視線を送ると父は相変わらず廊下に突き刺さったまま一人大興奮している。
「そんなだから母様に愛想つかされるのよ」
「うっ!」
 先ほどと同じように動揺し今度はしょぼくれてしまう。少し悪い気もするが考えるより先にそれが口に出てしまっていた。
 この父から少しだけ離れたい、と母は家を出て行った。キリカは住んでいる場所を聞いているが父は知らない。決して嫌いになったわけではない、ただ少しだけ離れたいだけといい、実際幾度も戻ってこようとしていた。けれどその度にキリカが母を押し留めていた。今戻っても父はまだほとんど変わっていないから。母が帰ってもまた疲れて出て行くようなことになりそうだから。
 キリカとしても親子で過ごせる方がいい。けれど疲れて出て行く母はもう見たくない。
「ははは……母さんのことを言われると弱いな……」
 父が今でも母を深く愛しているのは見ていればわかる。母もそれは知っている。だから母の事を言われると意気消沈してしまうのだ。
 後もう少し、もう少しだけ父がオーバーアクションを控えてくれれば。それだけを思う。
「とりあえず廊下直すから……でた方がいいと思うよ」
「そうする……」
 しょんぼりと背中を丸め道場のほうへ向かう。どうしたものかと思いながら、キリカは備蓄してある修理用の板が足りるかどうか考え始めた。


「とにかく弟子がいない事には我々の暮らしに明るい未来はない!」
「うん、まあそれは確かに」
「というわけで本気で弟子獲得作戦に出る。さあっ! どんどん意見を!」
「……」
 広い道場だと思っていたがリュウガと差し向かいで二人だけ座っているとなお一層広く感じた。
「意見をーっ!」
「意見ったって……」
 ヒートアップする父親をなだめる気も起こらない。
「父様も考えてよ」
「うむ。人にばかり意見を聞くのはいかんな。まずは宣伝。もう一つは何かしら得になるものをつける……景物進呈というヤツだ」
「……そうね」
 意外にも真っ当な意見が返って来たので驚いた。いつもはグダグダというだけで結局キリカにきつい突っ込みを受けうなだれるというパターンなのだが。
「これはよほど気にしているみたいね」
 この道場、泰斗流を組んだ武術を教える由緒あるところで、弟子が絶えたことは長い道場の歴史の中でもなかった。それが今回初めて不名誉な事態に陥ってしまった。
「うむ。少しずつ人が減っているのはわかっていた。けれどこんな事態にはならないだろうと甘く見ていたのが、そもそもの間違いだったようだ。本気でどうにかせねばならない。しかし……弟子のいない道場など……不名誉にもほどがある」
「父様……」
 母以外のことで酷く落ち込む父の姿は見たことがなく、思わず心配して声をかけるキリカ。その少女の肩をがしっと掴んだ。
「な、な、何!」
「キリカ! 父を助けると思い……」
 肩に置かれた手に力が入る。痛みに気を取られていたので最初何を言われたのかわからなかった。
「い、いたいよ父様」
「キリカ、頼む!」
「何を!」
「是非、前から弟子入りしていた事にしてくれ!」
「……」
 一瞬で肩の痛みが飛んでいった。弟子? 誰が? 誰の? 疑問符が脳内を飛び交う。
「お前には素質がある! 親の欲目を抜きにした、武闘家としての直感だ!」
「父様……」
「よし賛成だな! 今から訓練だ! そしてお前がこの父を超えることを楽しみにしているぞ!」
「ちょっと」
「挙句近在の武門へ看板を奪い取りに行き、武術といえば泰斗流という絶対真実を武術界に刻み付けるのだ!」
「いい加減にして!」
 ようやく父親の手を振り払えた。耳元で喚かれたので少し耳のとおりが良くない。もしこれで戻ってこなかったらどうしてくれるのだと、リュウガを睨んだ。
「何をどう見て私に素質があるっていうの。今まで武術に興味を持ったことなんかないんだから」
「そうか? 練武をしている時差し入れを持ってきてくれるだろう?」
「えっ……そりゃ持って行ったけど」
「あの時お前、何をした?」
「何って……皆さんに差し入れのおにぎり配っただけ」
「いやその前からだ。あの頃は弟子も多く両手じゃ足りない人数の差し入れを持ってこなけりゃならない。母さんは普通にそれだけ往復していたがお前、絶妙のバランスで持って一発で全部持ってきたじゃないか」
「だって持てたもの」
「その後配る時も、上に乗ってるのを降ろさず下から抜いて行ってたぞ?」
「上から取るの、大変じゃない」
「普通はそんなことはしない。よほどバランス感覚が優れてなきゃ無理だろうし、そもそもそれだけでどうにかなるってシロモノでもなかろう。父さんには少なくともそれはできんし、かつての弟子やお師匠も無理だと思う」
「……そうなの?」
「うむ。他にも色々……」
 延々とキリカの変わっているところを指摘するリュウガ。だがそう言われても物心ついてから当たり前のようにこなしていた事である。指摘されても変わったこととはどうも思えない。
「つまりは、お前には一つも武術を教えてはいなかったが、その資質は持っていると言うことだ! 父の目に狂いはない!」
「……」
「だからお前も弟子だったということで手を打たんか?」
「……見返りは?」
「この道場を継がせよう!」
「いらない」
 そもそも道場を継ぐ気などなかったのだ。学問所ではトッププラスの成績を維持しているがそれはもっと上の学校に行き、共和国政府の仕事をしたいが為。家族として最低限の手伝いはするが自分の行き先を勝手に決められる筋合いはない。
 そのことをキッパリとリュウガに伝えると目に見えて轟沈した。
「そうか……そうだよな……キリカは父さんなんかよりずっと頭いいもんな……」
「……」
「ほんの少し、ほんの少しだけでいいんだ。この道場がやっていけるだけの弟子が戻ってきたらやめてくれていいから……」
「……ううっ」
 結局その後半日かけて泣き落としをされ、とりあえず弟子ということになった。


 学問所から戻ったらまず着替え。道服のさわり心地にすっかり慣れてしまった。そして今日も目抜き通りでビラ配りをしている父の下へ。
「今日も頑張るね、キリカちゃん。後でお寄り。いい果物が入ったからこっそりおすそ分けしてあげるよ」
「すっかり名物になっちまったなぁ。そうだ、ウチのガキがあんたに相手してもらえないからってさびしがってたぞ。また落ち着いたら顔見せてやってくれ」
 商店街の面々がキリカに声をかけてくれる。それが嬉しくもあり、余計に今の自分の状況を思い知らされて嫌になる。とはいえ外にはそれを出さずに、ニコリと笑って応対していた。
 リュウガはキリカの姿を認めると有無を言わせず束になったビラを渡した。よく見ると朝からそんなに減っていない気がする。
「ねえ父様。いつもここばっかりじゃ効率上がらないと思うんだけど」
「そうか? だがここは人通りが多いぞ」
「だからさ。ここ、確かに人通り多いけどみんなうちの道場知ってる人ばっかりが通る道じゃない。もっと別のところに行ってみようよ」
「……どこまでだ?」
「そうだね。最低限首都まで行ってみるとか」
「首都! そんな遠くまで!」
「遠くまで行かないとみんなウチのこと知ってるから宣伝の意味がないよ!」
「うむむむ」
 煮え切らない男の態度に苛立ちが募る。こんなに父は優柔不断だったか。
「ああもう、父様が行かないなら私一人で行く!」

 啖呵を切って次の日には首都までの旅を開始した。こんな事になる前から一度は首都に行き、自分が希望する職場をきちんと見てこようと準備していた為、すぐに行動できたのは僥倖か。
「こうなったら元の目的の方を主にさせてもらわなきゃ」
 いかにして自分の目的を遂げつつ宣伝を効果的にすることができるか。広報板があるならそれを借りればいいが、他にも方法はないか。旅の間ずっと悩んでいたが、たまたま決めた決めた宿をみてふと思った。ここで宣伝させてもらえば一番いいのではないだろうか。
 見たところかなり大きな旅籠で客の出入りはいい。受付で記帳しているとキリカの知らない土地からの客も多々。
「それに、私のこともちゃんと客として扱ってくれる」
 明らかに子どもであるキリカに対してもきちんと客としての対応をしてくれる。そもそも客を見ても同い年くらいで行商に来ているものも居り、子どもと大人の区別はつけないところなのだと感動した。
 部屋に案内され一息つき、受付でもらってきた近辺の地図を眺める。だが自分のいた街とは規模が全然違い、どこがどう宣伝に効果的なのか良くわからない。宿の誰かに話を聞いてみなければ。
「この辺で宣伝に適したところですか?」
 ヒマになってきたタイミングを狙って受付で聞いてみた。相手はまだ若い女だ。
「どんな宣伝です?」
「ええと、ウチの道場のなんですが」
「道場ですか」
 受付が腕を組んで考えていると隣りで記帳していた男がキリカのほうをみた。
「お嬢ちゃん、道場って、なんの?」
「泰斗流っていう武術です」
「泰斗流?」
「……小さなとこです」
 疑問系の男に声が小さくなった。恥ずかしい事をしているわけではないのだがさすがのキリカもこう反応されると落ち着かない。
「いやいや、聞いた事あるぞ。かなり古くからある流派で今でも一流だと」
「そ、そんなもんでもないですけど」
「いろんな有名人を輩出してたな」
 受付にいた別の客も話に乗って来た。何人か名前がでて、父や祖父の名もそこにある。
「へぇ、じゃお嬢ちゃんは泰斗流の達人直系ってわけか。こりゃいい土産話が出来たよ」
 人懐っこそうに笑う初老の男にあいまいに笑い返した。
「いま、リュウガ殿はどこで道場を開かれているんだい?」
「ちょっと待ってください」
 聞かれ、ふとそのままビラを渡してしまおうと背嚢を探った。長旅のせいで少し皺が寄っているのをなんとか伸ばし、一枚手渡す。
「ありがとうよ。……へぇ、こんなところでやってたのか。どうりでなかなか噂が出てこないと思った」
「俺にもビラくれよ」
「俺も」
「私も欲しい」
 受付にいた人間がこの会話を聞いていたらしく、我も我もとキリカの手からビラを取っていった。受付も何枚か置いとくと言ってくれたので、言葉に甘えて束を渡す。
「……意外……本当に由緒ある名門の流派だったんだ……」
 言葉に出さずに呟いた。

 宿から話が広まり、滞在している間に何人かが泰斗流の話を聞きたいとキリカの元を訪れた。幼い頃から子守唄代わりに聞かされていた泰斗流の歴史や伝説をなんとか思い出して語ると聴衆は満足そうにして帰っていく。そのたびにビラがなくなり、結局辛うじて広報板に一枚貼れるだけになった。
「これはなかなかの収穫ね」
 首都に行けば少しは知ったものも出てくるだろうと思っていたがこれほどまでとは思わなかった。宣伝も場所がかなり重要なのだと妙に実感した。
「政府の見学も出来たし思い切って出てきて良かった」
 これで弟子が増えるかどうかはわからないが、現在のキリカにできることはこれ以上ないように思える。
 けれど、とりあえず宿との連絡と、最初に興味を持ってくれた男との連絡だけは断たないようにしなければ今後継続して興味を盛ってくれる人間はいなくなりそうだ。それでも、いかにして道場を盛り立てるかというこの難問に少し喰らいつけたようで嬉しい。
 そんな嬉しい結果を持って家に戻り、また学問所と道場と宣伝の繰り返される日々を送る。その間に内職をしてまたどこか効果的に宣伝を打てる土地にいけたらいいと思っていると、一人の少年が訪ねてきた。細い体はすぐに折れてしまいそうな印象がある。
「あのう、ここって、泰斗流……でしたっけ、その流派の道場ですか?」
「そうですよ。いま……師匠を呼んできます」
 もう少しで父と呼ぶところだったが一応キリカは外に向けては弟子ということになっている。寸でのところで飲み込んで少年を中へ通した。
「あのう……僕、入門希望なんです」
「えっ……あっ、はい、そう伝えます」
 降って沸いた言葉に驚きつつ、父を呼びに奥へ走っていった。

 以後、以前ほどの盛況さはないが少しずつ道場は賑わいを取り戻していった。たまにキリカが、二人入った同年代の弟子を連れて各所に宣伝に行った効果もあり道場を潰してしまうという極限的な危機からは脱した。
 けれど、道場で一番強いのはリュウガを押しのけてキリカであるということもすぐに広まってしまったのだった。



Ende.


 「空の軌跡で『知られざる伝説』はできないか」4。元は2009年夏のイベントに出す本のネタでした。思ったより一本が長くなり本に出来なくなったのでこっちでネタ再利用。書きあがってわかったコンセプトは『じゃりン子チエ』。なんでだ。
 リュウガとーちゃんが酷くファンキーな親父なイメージです。これまた何でだ。

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