春の嵐だった。元々谷間にひっそりと建てられている屋敷。朝も夜も激しい風に遊ばれているところで、屋敷にいる人間はさして気にとめていなかったのだが、夜になり山風だけではなく大粒の雨を撒き散らし始めた。
「このタイミングで嵐になるとは」
 肌寒くなり暖炉に火を入れながら年老いた男は呟く。薪がしけっては今晩乗り越えられないかもしれないと近くにいた男衆に言いつけた。強い風に家畜小屋はどうなるかと思い出しそれも出入りの男に指示して部屋の奥へ向き直る。今朝からずっと閉じられたままの扉の向こうではどんな事態になっているのだろう。幾度かこんな夜を経験したがどうしたって慣れないし、そもそも大嵐になどならなかった。
 帝都から離れたのが仇だったか。老人はそう思いながら暖炉の前の椅子に座る。だが帝都にいるわけにはいかない。いれば無用の心配ばかりが重なってしまう。幸いこの山の中の屋敷が皇帝がひそかに持っている屋敷と気付いたものはいない。表立っては。
「油が切れなければいいのですが」
 普段この屋敷を預かっている執事が火の入ったランプを二つ持ってくる。一つは老人の前のテーブルに、もう一つは扉の奥へ差し入れた。すぐに火の勢いが弱くなったランプが差し戻されるのをなんとなく眺めながら老人は今後のことを思い巡らす。
 女であれば表に出ずに済む。頼む、女であってくれ。心の底から願う。けれどこればかりは人の手に余るもの。願って叶うものではないのだ。
「いっそのこと嵐でこのままこの屋敷ごと……」
 自分の考えに吐き気がした。だがこの屋敷へと指示をしたのは皇帝だ。他にもたくさんの静養地と称した隠れ処を持っているはずなのに、こんな山間の、危うい位置に立つ屋敷を指定したのは。もしかしたら、と嫌な想像が頭を駆け抜けた。
「……年ばかり食い、物事を斜めにしか見られなくなった自分を呪いますよ」
「……お疲れのようですね。一休みされては?」
 執事にポロリと弱音をこぼす。顔にも声にも出さないが執事のその手の動きには老人に対する気遣いが見えた。全て知っていますよといわんばかりに。
「いや、自分はここにいましょう。……いなければならないのです」
「さようでございますか。では、暖かい飲み物を」
「感謝します」
 音もなく執事が部屋を出て行った。後には時折奥の扉を出入りする給仕数人と、彫像のように立ちつづけている護衛兵が一人と老人。皇帝の子が生まれようとしているのになんとも殺風景な部屋だと思った。が、それも無理もない。姉姫たちが四人、兄皇子たちにいたっては九人すでにいる。そして何より、皇帝はいま生まれ出でようとしている赤子のことは公式発表していないのだから。
 老人は、皇帝がいつどうやって母親になる娘と知り合ったか知らない。皇帝の娘と言ってもいいほど、幼さを残した娘。ただ強い意志を秘めた深紫の瞳が印象に残るといえば残る。城に出入りできるほど有力な貴族でもない。平民に近いぐらいの家柄で、老人は本気でどうやって知り合ったのかがわからなかった。長く宮廷にいるせいかそんな男女の話には妙に鼻が利くようになってしまったのだが。
 秘密の逢瀬を重ねたか、それとも無理矢理召し上げたか。老人の知らないところでそれは起こり、結果懐妊となった。周囲は望まぬ子を産むくらいならと堕胎を勧めるが、それまで黙っていた娘は断固産むとして聞かなかった。廻り廻って皇帝の耳にその話が届き、放って置くわけにも行かないからとこの屋敷をあてがわれそのまま移り住んできている。
「……!」
 長い思考に入りそれが聞こえたのが夢か幻のように思えた。けれど続けて赤子の泣く声が大きく響き渡る。
「生まれたか!」
 椅子から腰を浮かしかかり、またすぐ戻る。不用意に部屋に入ると産婆に怒鳴りつけられるかもしれない。気になるがここは落ち着いていなければと、執事が淹れてくれた茶を一口すすった。
「……」
 しばらくすると扉から詰めていた給仕が一人出てきた。黙って老人の前に立つと何事か耳打ちし、そのまま部屋を出て行く。残った老人はうつむき唇を強く噛み締める。
「……男か。男なのか」
 のそりと立ち上がって重い足を引き摺るように奥の扉の前へ。
「嵐と共に産まれた子。お前は皇帝一族の嵐となるのか」
 まだまだ嵐は収まりそうにない。伝書の鳥を飛ばすにも通り過ぎるまでは無理かと思いながら泣き喚く赤子の傍へと立った。あまりに小さく、あまりに儚いが精一杯そこにいると主張をし続けている。娘は頬を紅潮させ、流れる汗も拭かず我が子を眺めていた。老人に気付くと目だけで礼をしまた子へと視線を移す。この上ない慈愛の思いを込めて。
「この子の今後は波乱以外ないだろうが」
 それでも生きて母子で暮らしていって欲しい。先ほど望まぬ子と思った自分が嘘のようだと老人は自重をこめて笑った。

 老人は子を持ったことはない。女性が嫌いということはなくむしろ好きだったが、皇帝一族とまでは行かないものの血族にはかなり悩まされてきた。実の母親が刺客を差し向けたことがわかった時点で家庭を持つことを諦め兄や弟に家のことは任せ、さっさと城に入りその後ずっと皇帝一族の喜劇を傍目に見てきた。世渡り自体は上手い方だったので気付けば皇帝の相談を持ちかけられるまでに上っていた。その加減で望まぬ子のことを聞き世話全般を任されることになったのが昨日のようだった。
「じーじ?」
 たどたどしく絨毯の上を這う子は老人を肉親と思っているのか見つけると嬉しそうにする。ようやく歩き始めるまでになった男の子の笑みは真っ直ぐで純真で。血を分けた子はないが老人もその笑みをみて心が凪ぐのを知る。父皇帝が見たらどう思うだろうと思いながら子を抱き上げ庭の散歩をすることもしばしばだ。
「あれほど肉親を憎んだものが、他人の子をあやして喜ぶとは」
 人は変わるがこれは良い兆候なのか悪い兆候なのか。きっと人の身では計り知れないのだろうと思う。
 大して愛していないと老人が思っていた皇帝も、執務の合間にこの屋敷へ泊り込むことがある。親子水入らずの部屋からは優しい楽器の音が零れてくることもあり、屋敷で働く人々も手を止めひとときその旋律に耳を傾けた。決して子をないがしろにしているわけではないと、その旋律に載せて主張をしているのだろうなと使用人たちは噂し、老人は己の認識を改めざるを得なくなった。
 正妻や側室たちの目を盗み、側室にすらなれない妻と子をそっと支援するしか出来ないというのはどういう気分なのだろうか。なんとなく考えながらも生涯理解は出来ないだろうと思っている。
 姿を見せた母親に子を渡して寂しさを感じた。
「どうされた?」
「……」
 最初は自分が寂しいのかと思ったがそうではない。母親が子を眺める目に痛烈な悲しみが混じっている。
「……何事かあったかの?」
「……父から連絡が」
 娘の言葉に、彼女が末席でも貴族の出だということを思い出した。家族には子を産むことは伝えたがその子の父親が誰であるのかは言っていない。老人は言うことを勧めたが上昇志向の強い父に知れると間違いなく政治の道具として使われるだろうと頑として首を縦に振らない。
「お父上はなんと?」
「……」
 黙り込んだ母親。辛抱強く待っているとようやく口を開いた。
「嫁ぎ先が決まった、と」
「!」
 時折実家に戻っている間に出入りの商人が見初めたのだという。豪商として名を馳せ、娘の実家より金持ちな商人ならば、世間より年は食っているとはいえ、一度子を成したとはいえ破格の嫁ぎ先だ。
「売ったのか! 貴女を父君は!」
「さあ……けれど父の手元には支度金が既に届いております。ここで私がわがままを言って断れば、家自体も潰されてしまうことでしょう」
 傾き、名しかしがみ付くものがない実家。それでも娘を育ててくれた実家。なくなってしまえと願うには、娘は少々年をとりすぎていた。父を悪く思わないでとだけ言い残し娘は子と共に部屋へ戻っていく。残された老人はどうにかしようとして立ち尽くすばかりだった。
 伝書鳥の知らせを聞き数日後に皇帝が屋敷へ来た。奥まった部屋の中、どんな会話がされたのか知る由もない。けれど一つの方針は出たのだろう、部屋から出てきた娘は意外にすっきりした表情だった。
「波乱は起きるでしょうがきっと表ざたになることはないでしょう。私もできるだけのことをしてみようと思いますし、あの方もお約束してくださいました」
 そう言って皇帝の印が施されたブローチを老人に渡す。
「いつもいつもご迷惑ばかりで申し訳ございません。けれどこれが最後の頼み。どうか、この子の後見に」
 皇帝の子であると示す唯一の証。見かけより重いそれに、久々に体の奥底から震えを感じた。どう応えようか。そもそも老人は皇帝に依頼されてここにいるだけであってこの母子には何の関係もない。老い先短いこの先の人生をわざわざ波乱に満ちたものにする義理はどこにもない。ここでいる分には他の噂も入らないから気にならないだけで、この子を城に迎え入れると決めたなら確実に荒れるだろう。老人にとって何ら利になるものはないし、どう考えても手を引いたほうがいいに決まっている。
「……重責お引き受けいたしました」
「ありがとうございます……」
 けれど口から出たのは正反対の言葉。決死の重いでブローチを託した娘の手が僅かに震えているのを見たとき心が固まった。
「私もできるだけのことはいたします。どうか、どうかこの子が愛を知らぬ子にならぬよう」
 感極まって娘はすすり泣き始めた。そんな彼女をどうしたのというように、子が慰めていた。

 表向きには歓迎とまでは行かないが追い返されることはなかった。城内で老人が連れて戻った子の出自を知らぬものはない。存在が目障りだというものも多いだろうが、皇帝が決めたことに誰も逆らうことはなかった。
 いくつもある部屋の、本館から一番遠い小さな一室に少年の部屋ができた。嫁いだ先の母親から来る手紙を握り締め、老人が顔を出すと怯えるようにしがみ付く様はなんとも哀れで、これではいけないと老人は極力彼の傍にいることにした。老人の語る様々な物語に顔を輝かせて見上げる。
 語るべき物語がなくなりそうだと思った老人はもう一室、もともと老人がいた部屋を改築して古今東西の本を集め始めた。いつか自分がいなくなった後も、少年が本をみて自分を思い出してくれたらいいと願いつつ。伝え聞いた母親も嫁ぎ先からどうやってか、異国の本を送ってきた。少年に「これは母からのものだ」と教えた時の様子は忘れられないだろう。何も言わず半日ほど、本を抱きしめて座っていただろうか。そんな様子に皺の刻まれた目元をそっと拭ったのも一度や二度ではない。
「良い子に育っている」
 贔屓目を抜いてもそんな風に思う。取り巻く環境は良いとはいえないが、少年自身は真っ直ぐ育っている。血縁ではないのに老人は感慨深いものを覚えた。
「この笑みを見られるなら自室の一つや二つ、潰しても構わんな」
 浸っていると男が耳打ちしてきた。自分の使っている間者で少年の周囲を守らせている。
「正妻様の手が伸びているようです」
「承知。お前はまた元のとおりに」
「御意」
 短いやりとりを経て少年にまた向き直る。ついに正妻が本腰を入れてきたらしい。決して表に出て謀殺することはない。確実に事故を狙ってくるはず。もしくは侍医を抱き込み病死とするか。
 いつかこんな日が来るとは思っていた。けれどもう少し少年は少年であって欲しい。賢しく城を這う皇族にはなって欲しくない。
「……いつからこんな風に思うことになったのやら」
 帝都から遠くにやらず手元に置くという皇帝の方法は決して間違っていなかった。だからこそ誰も手を出せずに数年ここで何事もなく過ごせた。けれどそれももう終わりのようだ。長じてくるにつれ噴出してくる数々の問題。女であればおそらく問題にすらならなかった問題。
 母親からもらったブローチを返せばいいのかもしれない。そしてこの国を出ればいいのかもしれない。けれどそれは老人が決めることではない。
「……坊ちゃま。大切なお話があります」
 その日から少年は護身の為、銃を持つことを知った。自分が生き残ることを最優先にしながらも、他人を思いやることだけは忘れないように。彼の母が願ったように、そして老人自身もいつのまにか願ったように。願いは通じたのか少年はぶれることなく真っ直ぐ歩いた。ともすれば崩れ落ちそうな道の上を臆することなく。
 隙を見せぬよう暮らし、幾度かあまりにも事故らしい事故が頻発したがその全てを掻い潜った。
「そうだ。無様でも生き抜け……決して死ぬな」
 少年が長じて何をするのか知らない。おそらく自分はそこまで生きていられないだろうと思っている。けれど心配はないだろうとも思う。切り札であり急所にもなるあのブローチは直接少年に渡せるならそれでいいし、もしも無理ならしかるべきところに保管してあることを告げればいい。いや、聡明な少年のことだ、在り処はもうすでに自分で見つけ出しているのかもしれない。
「非常に残念だ」
 彼の歩く道を見届けられないのが。孫がいればこんな気分になるものなのだろうか。ぼんやりと思いながら、とりあえずは明日を生きるため目を閉じた。



Ende.


 「空の軌跡で『知られざる伝説』はできないか」3。某末席皇子生誕の話を他の人視点で見たらどうなるのか。この後すぐに後見のじーちゃんは謀殺されたりとか、それから一年くらいして少佐に会ったりとかいろいろ脳内展開が酷くなりそうだったのでこの辺で。そのうち公式で補完されるんでしょうけどね。

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