いつか、どこか。生き物の生態を観察している女がいた。その観察内容はちょっとしたもので、意外にも数多くの生物を網羅している。山の生き物、人里付近の生き物、海の生き物。思いついたらふらりと出かけて数ヶ月というのもザラで、戻った時には大量の紙を屋敷に運び込むのだった。
 けれど研究者の間ではほとんど相手にされていない。その街ではそれなりに知れているのだが研究者たちは彼女をむしろ無視していた。理由は一つ、その調査書と呼ばれるものにある。要するに研究としても実用としても立ち行かないレベルの、本当に趣味のものでしかなかった為だ。
 趣味でも長くやっていればある程度の水準までは行く。けれど、彼女の判断基準は決して揺らがず高みを目指すこともせず、彼女が可愛いと思うもののみが、その観察対象になるのだ。それも、少しは観察した生態を記している場合もあるのだが、大半は可愛いと思った行動を記しているだけに過ぎなかった。
「よくもまあこんなことに金つかえるよ」
 搬入を手伝った友人がぼやくとすかさず彼女はにこりと笑う。
「どの道趣味にしかお金を使う気はないのだもの。多分私が死ぬまでにお金が底を作ってことはないでしょうし」
 女は資産家の夫に先立たれ子どももいない。その無邪気な傲慢さからでるその言葉を聞くと智はいつもげんなりした。それは多少の羨望、他のしがらみを全て捨てて趣味だけに生きても食うに困ることがないという立場に対する羨望を含み、余計なことを言い出さないようにと、こう返事をされたらすぐにこの話題をやめることにしていた。
 
 現在彼女は一匹の動物に心惹かれていた。比較的人に懐きやすい生き物だが性格は極めて気紛れ。寄って来るのはエサをもらえるとわかっている時のみという、かなり人によっては毛嫌いする生き物。彼女の住む周辺でベチねこと呼ばれているその生き物に、なぜか女は嫌われていた。
「最初は近寄ってくれたのよ。せっかくだからひっくり返してみたり尻尾を伸ばしてみたりヒゲを引っ張ったりいろいろしてみたらもう次から近寄らなくなって。エサだけはちゃっかり持っていくけど」
 それだけやればほかのどんな生き物でも、例え魔獣でも近寄らないと愚痴を聞かされる友人は思うのだが、本人は「他の生き物にも同じようなことをしたけれどあそこまで逃げ出すようなことはない」と言って譲らない。そんなことがあるはずないと思った友人は、何かの折に女がいない席でこの話をした。当然ありえないということになり、半分酒が入りながらの雑談だったが、もしかしたら同一個体は逃げてしまっているが、同じ種族の別の個体が近寄ってきているのではないかということになった。この結論になった時、さすがの友人もそんな馬鹿なと大笑いをしたものだが、ベチねこの愚痴を聞かされているとき不意に、案外に的を射ているのかもしれないと背筋が寒くなった。
 そんな瑣末なやりとりがあったことなど女は露ほどにも知らず、つれない態度のベチねこ観察をする為一つの案を出した。
「その辺のが寄って来るのを待っているからいけないんだ。自分の近くに囲い込んでしまえばいい」
 というわけで女はベチねこを飼ってみることにした。
 飼うといっても近くにベチねこを飼う家はなく仔をもらってくるということはできない。初期状態の警戒心はかなり高く、それほどベチねこに対して悪さをしていない人間でも捕まえるのは至難の業。ましていじめにいじめたおしている女だ、気配すら感じさせることなくベチねこたちは消えてしまっていた。
「一体全体何が原因なのかしら。人に捕まえてきてもらった仔だってすぐ逃げ出すし」
「……お前の悪行がベチねこ社会に知れ渡ってるんじゃないのか?」
 友人がボソリと呟くが女には聞こえていないようだった。一人腕組みをして考え込んでいる。かと思えばすぐに顔を上げた。
「そうよ、逃げるってことは警戒心をもたれてるってこと! じゃあ警戒心を解きほぐせばいいだけ!」
「……」
 一人で勝手に頷き、友人をその場に残して屋敷に飛び込んだ。一瞬何が起こったかよくわからなかった友人だが、小さく勝手にしろと呟いて家路についてしまった。
 屋敷に戻った女が一番にしたことは出入りの商人たちを全て呼び集めることだった。そして次に、『ベチねこが警戒心を持たない服』をオーダーした。
「別に高くても構わないから」
 女は金持ちである。商人たちもそれはわかっていて、金に糸目は決してつけないのもわかっている。けれどもさすがにその依頼には困惑した。一体どこでどうやってそんな服を見つけてくればいいのだろうか。そして皆が皆、頭を抱えて屋敷から出て行く羽目になった。

 そのうち一人の商人が、新しく服を仕立てることを思いついた。実現可能そうな内容を女に説明する。
「確か、銀色に輝く石には認識を惑わす力があるといいます。その石を服に上手く縫いこめばいけそうですが」
「石? 体に当たって痛くない?」
「石といっても粉ぐらいまでに砕きますので大して問題にはならないかと。それでも惑わしの力は発揮されるそうですから」
「ふぅん。まあいいわ、とりあえずやってみてちょうだい」
 許可がおりて商人は仕立て屋に相談をした。最初渋い顔をしていた仕立て屋だが、どれだけ費用がかかっても問題ないという話を聞きようやく重い腰を上げた。
 そして二月ぐらいして女の下にとどけられた服はなんとも風変わりなもの。外側はふわふわの毛に覆われ手触りはよいのだが、全身一つながりで人前に出るには少し勇気がいる。頭の部分もすっぽりと覆われ顔が出ると思われるところだけあいていた。 「これ……なの?」  さすがにどう扱っていいものかと箱から引っ張り出すとご丁寧に尻尾までついていた。 「はい、奥様が所望された望みはこのスーツで叶えられます。とにかく一度お着替えを」  促され、気は進まないが着替えてくることにした。こんな見るからに動きにくそうなものを着て、あのすばやいベチねこたちに対抗できるのだろうか。  けれど実際に着ると思ったより動きやすかった。縫製はどこにも無理はなく、心配していた石のごわつきもまったくない。
「すばやく円滑な活動を行う為、それらを高めるといわれている黒い石も混ぜ込みました。いかがでしょうか」
「ええうん、悪くはないわ。けれどこれで本当にベチねこに近づけるのかどうか」
「ではやってみましょう」
 と、商人は後ろに置いてあった篭から一匹のベチねこを出してきた。突然知らないところにつれてこられたベチねこはしばらく不安そうに辺りを見回していたがやがて居心地の良さそうなクッションを見つけてそこで寛ぎ始めた。女はそっとベチねこに近づくがベチねこは意に介さずといった様相でごろりと転がっている。恐る恐る手を出しても変わらず、思い切って抱き上げても逃げようと端なかった。
「……やったわ」
「おめでとうございます奥様」
「今までどうやったってこんなに近づくこともできなかったのに。すごいわこの服」
 いいながら給仕にたっぷりと金の入った鞄を持ってこさせる。商人はその重さに幸せ、女はベチねこを抱けて幸せ、そしてなにより必要以上に脅かされずに暮らせるベチねこも幸せだった。

 ある日ちょっとした事件が起こった。庭にある高い木にベチねこが登り、降りられなくなってしまったのだ。慌てて梯子を持ち出そうとする給仕を制し、以来あの服を着たままの女が止める間もなくするすると登っていってしまった。
「お館様! 危のうございます、早く降りてきてください!」
「大丈夫よこのくらい。靴だって手袋だって合わせて作ってもらった特注なのだから、気分はベチねこそのものね」
 はらはらする給仕を下に、一人楽しい女は木の枝で困り果てているベチねこを捕まえた。軽く撫でてやったのだが、緊張しきっていたベチねこは女に牙を向き指に噛み付いた。
「痛っ!」
 思ったより勢いよく噛み付かれ鋭い痛みが体を走る。思わず体のバランスを崩して木から落ちてしまった。給仕の叫び声でようやく何が起こったのか把握し、体を動かそうとしても上手く動かない。下に生えていた低木のおかげで多少緩和されたが、しばらくまったく動けなくなってしまった。
 これに反省した女はベチねこのセットをクローゼットの奥に押し込んだ。見るとまた着たくなるので見ないようにするというのがその理由だ。やがて女が死んだ後、これらの服はまた日の目を浴びることになるのだが、それからどこにいったのかははっきりとわからないのだった。ただ、どこかの魔獣がその身を偽る為に盗んでいったといわれており、大半の人間がそれを信じている。


Ende.


 「空の軌跡で『知られざる伝説』はできないか」2。今回はベチねこスーツその他ベチねこしリーズ。
 一体誰がそんなものを作るんだ、となるとやっぱり変わり者しかそんなものを作らないし作らさないようなそんな気がしますw

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