……寒い。

 雨の中、ユリアは山奥を一人彷徨う。短く吐き出される息は白く、余り質のよくない着衣のおかげで雨が染み込み体の芯まで冷えていた。大きな樹の洞を見つけ、せめて一部だけでもと背負っていた荷物を置いて背中をそこに無理矢理押し込んだ。もっていた嚢の中には携帯用の着火装置はあったが、防水されてあるはずなのにしけっていて使えない。
「オーブメントもどこかに落としてしまった……」
 あれがあれば雨の中でも炎を起こすことができただろう。軍の規律では戦闘行為以外での起動を禁じているが、こんな非常事態なら報告しても罰にはなるまいだろうに。
 総重量50キロ程度の荷物を持った山中行軍訓練の途中だった。いつもと同じように遅れず先走らずでペースを保っているうちに霧が酷くなってきたのだ。霧降の山で訓練をするのは地方勤務時代の頃からのことで、それなりに知識をもっている場所。新人教育の一環で二月に一度程度行われており、それにユリアは参加していた。親衛隊の新人にも必ず山中行軍を課しており、毎回とは行かないがユリアも一緒に山の中を歩いていた。
「それにしても……前後に人がいたはずなのだが」
 黙々とペースを乱さないように歩きつづけていた。前を歩く人間の背を見失わないようにと努力していたが、霧の為に次第に見えなくなり、気が付いたら知らないところへ迷い込んでいた。
「私がこんなザマではいかんな……」
 両手で腕をさすり、少しでも暖かくなろうとするが、細かな雨は体にまとわりつく。霧のほうがましだっただろうか、それとも同じだろうかと溜息をついて辺りを見回す。深い森の奥、黒い樹の幹が自分に迫って来そうな錯覚。今動いても仕方が無いと、しばらくそこで体が冷え切るのを阻止しようと努力を始めた。

 どれくらい時が動いたかはわからない。少なくとも夜にはなっただろう。ふと、遠くに明かりがあるのを見つけた。
「夜になって見えたか。何があることやら……」
 だが、何かがいると言うことである。こちらに来いと呼びかけてくるような光に誘われ、警戒しながらも立ち上がった。荷物を持つこともせずフラリと歩き出す。木の根に足を幾度か取られつつ明かりまでようやくたどり着くと、山の中には全くそぐわない立派な門扉だ。
「……」
 あまりにそぐわなくて、逆にそれが当たり前に思えてしまうほど驚いた彼女には声もない。ただその格子を、その奥に広がる庭を眺めるだけだ。
 しばらくそうやっていて呆けていたが、顔に葉から落ちてきた雫が当たってはっと気が付いた。少しの間だけでもいい、雨宿りをさせてもらおう。手袋の下で指先は感覚を失い始めているのだ。
「どなたかいらっしゃいませんか!」
 応えはない。幾度か呼びかけても誰かがくる気配はない。仕方がないともと来た道を戻り始めると、鈍い音を立てて門扉が開いていく。振り返ってみても誰かが開けている風ではなく、オーブメントで制御をしているようでもない。何の変哲もない、昔からの門扉にしか見えなかった。
 普段のユリアなら警戒し、そのまま元いた洞に戻っただろう。だが、山の毒気に当てられたのか警戒心はどこかに行っており、何よりもとにかく冷えた過ぎた体をどうにかしたかった。何も考えずに一歩足を踏み入れる。
「……暖かい」
 門の中と外では全く違う世界だった。どこかに光源があるのか、ほんのりと明るい庭に咲き乱れている季節はずれの花々。ぼんやりとした頭で見えている屋敷へ足を伸ばすと、そこも勝手に扉が開いた。疑うことを忘れたユリアはそのまま招かれる。広いホールで、庭の暖かさがそのまま続いていた。
「ありがとうございます……」
 誰に対しての礼か良くわからないが口をついて出てきていた。階段に腰掛けさせてもらおうと毛足の長い絨毯の上を滑るように歩く。
「……部屋?」
 扉から明かりが漏れている。そっと覗き込むと赤々と燃える暖炉が目に飛び込んできた。外にいるよりは格段に暖かいとはいえ、やはり暖炉があるのならそちらにいたい。部屋の中には簡単であるが食事まで用意されていた。ほんのりと湯気を上げるスープに心惹かれるが、さすがにそこまで甘えるわけにはとそのまま暖炉の前に立つ。濡れた衣服を脱いで椅子にかけ、質素な下着姿になって座り込んだ。柔らかい毛足が肌に心地よい。
「本当に、助かった……」
 炎の熱気で体がようやく本格的に温まり始めた。誰も薪をくべていないのに消える気配のない暖炉。それに気がついたとき、ようやく警戒心が戻ってきた。辺りに何がしかの気配がないか探るが全くない。それどころか無人の館ではないかという疑問。
 衣服はまだ少し濡れているが先に比べればずいぶんといい状態だ。暖炉の前でごまかしながら着替え、屋敷の中を探索し始める。
 あのまま雨に打たれ霧に紛れていればそのまま死んでいたかもしれない。それを思うとこの屋敷の存在はありがたいものではあるが、そここそが罠である可能性もないことはない。ただ、この山中でそんな罠を張ることに何の意味があるだろう。訓練で迷ったのは本当に偶々であり、それを計算していたとはとても思えなかった。
「偶然過ぎる偶然を作り出せるような存在であるならば、そんな存在に対して勝てるはずもないだろうし、こんな回りくどい事をせずとも捕らえられるだろうしな……」
 一階も、二階もくまなく見て回る。屋根裏への梯子を見つけたのでそこも気配を探る。けれども何の収穫もなく、一階の暖炉の部屋へ戻ってきた。
「……」
 考えれば考えるほどわからなくなってきた。相変わらず赤々と燃え、スープもそのまま置かれている。空腹は何とか堪えられるが喉が渇き始めていた。
「私の……為に?」
 音に出せど答えるものはない。手がスープに伸びそうになるのを堪えて暖炉の前に再び座った。すると今度は眠気が襲ってくる。眠ってはいけない。ここなら大丈夫だ。相反する二つの思考が戦い、やがて眠りの海を漂い始めた。

 目を覚ますとそれほど時間は経っていないように思えた。が、僅かの間でも眠れたということと、冷え切った体が温まったおかげで体も頭もきちんと動くようになっている。
「……もう、行かなくては」
 元気になったならばもう行かなくてはいけない。そんな考えがどこからともなく浮かび外に出ると雨もやんでいる。強い月明かりが山全体を照らし、これならば道を見つけられそうだ。開いた門から外に出て洞まで走る。不思議と、行きはあれほど足を取られた木の根に引っかかることもなかった。一度だけ後ろを向くと、あの門がゆっくりと閉まっていくところだった。
 苦もなく荷物を見つけて、月の光に負けないほど明るい星を見ながら方向を割り出す。あまりに簡単に道を見つけて、次いで下枝に引っかかっていたオーブメントも見つけた。できすぎのような事態に少し寒気を覚えるものの、まずは隊と合流するのが先とばかりに道を急ぐ。どうせすぐに合流できるだろうと思っていたら案の定だった。
「……」
「あ、隊長! どちらかにいかれていたのですか?」
「あ、ああ……そのようなものだ」
 今夜のキャンプ予定地の座標まで行くと部下がユリアの姿を見つけた。行軍中からユリアがいなくなっていたとは思っておらず、キャンプにたどり着いてしばらくしてから、ユリアの姿が見えないと漫然と言い始めていたところだった。全隊を率いていた指揮官も言われるまで気付いていなかったらしい。
「とりあえずお休みください。テントはあちらに設営しております」
「ありがとう」
 簡易食糧を受け取り指されたテントに入る。そういえば荷物を背負っていたのに全然重く感じなかった。一体なんだったのだろうと、先ほどあったことを冷静に考えようとする。考え込みながら荷物整理をしていると見慣れないものがあった。
「皿? どこかで見たな……というか、何故皿がこんなところに」
 まあいいかと、また考え事に没頭した。

 山中行軍から戻ってきてから、ユリアのやることなすこと全てが見事な成果を持って帰ってきた。絶対に失敗だと思った空戦訓練の判断も、その方がよかったという結果になった。普段であれば戦隊の半分を落とされても仕方がない失策だったのにと思うのに。
「最近の君の成績は凄いな。近接格闘もどんどん伸びている。指揮統率も十分だし、本当に昇進が来るかもしれない」
 カシウスが上機嫌でユリアの報告書を受け取る。
「自分は……いえ、なんでもありません」
 何かが変だ。何かがおかしい。あまりに上手く行き過ぎて気持ちが悪い。本当は自分の実力ではないと口に出そうとしたが、忙しい准将をこんなことで煩わせるわけにはいかないと口を閉じた。少し驚いた顔をしたカシウスだが、なんでもないのならと頷く。
「今の君と本気で訓練したら俺のほうが負けそうだ。がんばるとするよ」
 そんなことはといいかかるユリアを制して部屋を出て行ってしまった。今からまたツァイスの兵器廠へ行くのだ。敬礼をして見送ったユリアは、その背が見えなくなるとうつむいた。明らかに自分の力ではないことで褒められるのはおかしい。詰所の奥にある自分の執務室に戻り、淹れてもらったお茶を飲みながら少しだけ考える。
「……この皿は」
 受け皿に使っている皿はあの日、荷物に紛れ込んでいた皿。捨てるのも忍びなく、シンプルで硬く焼き上げられた皿で気に入り、似たようなカップを探してあわせて使っていた。
「あの日のスープ皿に良く似ている」
 迷い、ひと時の休息を得たあの屋敷で、結局手はつけなかったスープが入っていた皿。もしかしたら茶も入っていたのかもしれないが、そこまでは記憶が定かではない。
 その後、アルセイユで上空を飛ぶ機会があったが、どうしてもあの屋敷は見つけられなかった。あれだけ広い庭で空がよく見えていたので、逆に空から見えないはずはないのだがいまだに見つけられていない。なんとなくもう二度といけない場所かもしれないとは感じている。
「どうしたのですか? お茶をもったままぼんやりとされて」
 ヒルダがカップを片付けに来ていた。
「いえ……あ、すいません、飲んでしまいます」
 慌てて空にして差し出されたトレイの上に置く。さして疑問に思わなかったようで、老婦人はそのまま部屋から出て行った。
「なんとなく、あの皿のせいな気がする」
 だがそんなことがありうるのか。結局仕事はあまり進まなかった。とはいえ、ずっと燻りつづけていた内容が片付いた為、その意味では進んだのだが。
 次の日にユリアはあの皿を持って宝物庫を訪れていた。女王に許可をもらい、一応の目付けと言うことでクローゼとフィリップが付き添っている。
「はて、どこかでそんな伝承を聞いたような聞かないような」
 フィリップが年は取りたくないと苦笑いをした。
「ありますね。山岳伝承の一つに似たようなお話。はぐれた旅人が立派な館に迷い込んで、そこにあるものをもって帰ったらその後は繁栄したとか……逆のパターンも見られて、リベールだけではなくて、少なくともこの近辺の国で山深い地域では流布しているようです」
「そうなのですか……」
 クローゼの説明を聞きながら皿を棚の奥にそっと置く。
「それは貴女が山にもらったもの、ということになりますでしょうかね。ならば貴女がもっていていいものと。幸運を得ても良いだけの努力、自分は良く存じ上げております」
 老執事の言葉にクローゼも頷いている。
「いえ……自分には過ぎたものです」
 それを静かに制す。確かに、絶対に間違えない判断や、山積みの難問が片付いていくのは嬉しい。けれど、それが本当にユリアの力なのか判別できないのは嫌だ。今まで何にも頼らず、自分の力で認めてもらってきていたはずなのだから。
「その伝承が本当で、山の力がこの皿に宿っていると言うのならば……自分は、この国こそを護って欲しい。なので、こちらに置かせていただきたいのです」
「……それは嬉しいことですが……でも」
「自分は、山にあの場所へ導いてもらうことができた。それだけで十分です。あそこがなければきっと生きて戻れなかった。凍え死んでいたかもしれないのですから」
「解りました。では、大事にこちらであずからせていただきます。けれどこのお皿はユリアさんのものですよ。見たくなったらいつでも見に来てください。綺麗なお皿ですし」
「確かに。これほどの器は、そのような不思議な力があってもなくても宝といって差し支えないですな」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
 こうして今でも宝物庫の奥にその皿はある。ユリア自身はようやく元に戻った日常に安堵し、失敗を反省する日々。けれど、たまにとんでもなく幸運に見舞われることがある。そんなとき周りを見渡すと、あの皿らしきものが近くにあるのだ。それを確認しようとすると、例えば給仕が片付けたりしてはっきりと判別できない。

 私のことは構わないから。

 心で呟きながら、自分の頑固さに呆れて笑うのだった。


Ende


 ホラーにするかでかなり悩みました。大好きだ遠野物語。ユリアさんの性格ならきっと皿手放す。過ぎた幸運は幸福とは限らない。でも絶対なんかに気に入られてるよねこれw

戻る