グリンが頬を染めながら図書館で本を読んでいるのも恒例で、たまに半分ぐらい飛びながら外に向かうことも多い。大抵は恋愛小説に感化されてトリップしているだけで、最初は驚いた図書館の常連たちも今や慣れたものである。
 だが今日は少し様子が違った。もちろん手に持っているのは長編恋愛小説。だが頬を染めつつもその瞳には目的が宿っていた。
「レイスちゃん!」
 図書館にやってきたレイスアールの元に文字通りひとっとび、その肩に手をおく。
「グリン、どうしたの?」
 緑の目を丸くして首を傾げる。
「聞きたいことがあるの。こっちの談話室来て」
「いいよ」
 何だろう、と興味津々の天使を引き連れて奥まったところにある談話室へ。ここなら話をしても問題ないし、お誂え向きに誰もいない。
「ええとね、レイスちゃんはせんせーさんの心にいたことあったよね?」
「うん」
「そのときのことを教えてもらいたいの」
「えっ?」
 さすがのレイスアールもこれには面食らった。どうしようかと逡巡する。けれどグリンは期待に目をキラキラさせているし、レイスアールとしてもやっぱり「好きな人のことを話したい」という欲求がある。
「恥ずかしいけど……グリンなら」
 迷った挙げ句、頬を染めて頷いた天使にグリンは不覚にももだえそうになった。


「そもそもどんなところだったの?」
「うーんと……ふわふわしてて、どこにでもいける感じ。いろんな本がいっぱいあった」
「せんせーさんらしいのね……」
「でも、私もいっぱいいた」
「あら」
 そうそう、そういうのがききたいの、と頷くグリン。
「なんだか恥ずかしいぐらい、いろんな私がいたよ」
 初めてせんせーと出会った病魔の檻のあの水辺。何が起こったかよくわかってなくてぼうっとしていたところから。水の中から助け上げてくれた強い力はまだ覚えている。
 ヴェネディットの城で迷って困り果てていた通路。
 鉱山で閉じこめられて途方にくれたけれどどうにかしてレイスアールだけでも助けようと考えてくれていた奥の部屋。
 電気のビリビリから守るように歩いてくれてることを知った星の遺跡。
 手をつないで見せてくれた真実と、それに負けないように見守ってくれていた底の底。
 そして、レイスアールのことしか見ていなかった玉座の間。
 そういったことに加えて、ありとあらゆる時のレイスアールの姿がせんせーの心の中にはあったのだという。
「……ほんっと、せんせーさんはレイスちゃんのことが大好きなのねー」
 半分感心、半分後悔でグリンが感想を漏らす。しかしこの手の話を聞けば大抵はそうなる。好きに幸せになってくれ、という気持ちがムクムクとわき上がってきた。
「でもね、せんせーは、私が心の中にいるのに最後まで気がついてくれなかったんだよ!」
「そうなの?」
「うん! ずーっと、ずーっと「ここにいるよ」って言ってたのに」
 頬を膨らませるレイスアール。こういう姿を見ると本当に天使っぽくないと思う。グリンの知っている天使は本の中だけではあるが、少なくとも特定の一人を好きになったり、その相手にたいして頬を膨らませたりはしなかった。ただ、ふと気づけばそこにいて、場を治めて知らない間に去っていく。そういう風に描かれていた。
 だがレイスアールは違う。確かに翼はあるし、輪っかもここぞと言うときには出現している。だから天使であることには間違いないのだろう。間違いないのだろうが、あまりにも想像からかけ離れていた。彼女は普通の年頃の女の子でしかないのだ。
「ブラック様はレイスちゃんをどうしてこういう風に作ったのかしら……」
 グリンが考え込んでいるとその隣に影が見えた。見上げると。
「おもしろそうなお話、してるのね。混ぜてもらっても構わないかしら?」
 カルネだ。柔らかい物腰、そこはかとなくどころか、全身から匂い立つような色香を出しているその姿もやはり従来の天使とは違う。
「カルネ、聞いてよ。せんせーったら……」
 レイスアールはグリンに話したように怒濤の愚痴をカルネに向けて押し出す。それらを一通り受け流してカルネはおもむろにレイスアールに向かった。
「でもねレイスアール、私も見たけどせんせー君の心の中は貴女でいっぱいだったの。だから、本物の貴女がいてもきっとすぐにはわからなかったんだと思うわ。だってあんなにたくさんの貴女がいたんですから」
「……それは……そうかもしれないけど」
「それにレイスアール、貴女ずーっとずーっと、せんせー君に気づいてもらいたい、って願ってた?」
「それはもちろん」
「本当? ちょっとさぼってせんせー君の心の中を探検、なんてしなかった?」
「うー」
「だから、せんせー君を一方的に怒るのはダメよ」
「……はぁい」
 不承不承であるもののレイスアールは頷いた。そこに話を聞いていたグリンが加わる。
「はー。心って本当に不思議。カルネさんもせんせーさんの心にいることができたし、レイスちゃんもいた。宇宙のフルルーだったっけ、彼女もいた。私でもできるのかな?」
「できるわ。というよりも、もう居るって言った方がいいかも」
「そうなんですか?」
 カルネはにっこり頷く。ふてくされていたレイスアールも好奇心に満ちた目でカルネを眺める。
「そもそも……心の中にいる誰かさん……たとえば、グリンちゃんの心に思い描かれるメティスちゃん。これは、本物? それとも違うもの?」
「ええと……そう改まって聞かれるとどう答えていいのか」
「メティスはちゃんと実際にいるから、本物じゃないんじゃないの?」
 ああでもないこうでもないと一通り意見を言いあい、グリンとレイスアールの意見としては「偽物?」という感じになった。カルネはそれを満足そうに見て笑う。
「正解は、本物」
「そうなんだ……」
「どうして、どうしてですか? メティスさんは現実に存在していますよ?」
「そうねぇ。説明が難しいんだけど、一言付け加えるとしたら、「その人にとって」本物、っていうのが正確なところかしら。心は出会った人の心に住み着いていく……という感じなの。そしてその人のことを知れば知るほど、住み着いた心は成長していくの。怒ると怖いところとか、とても優しいとか、そういったことを付け加えていって」
 いったん言葉を切って二人の様子を見る。わかっているような、わかっていないようなそんな表情。まあそうなるわよね、と納得するカルネ。言ってるこちらもわからなくなることがあるんだから。
 自身、心だけの期間が相当な間あったため考えていたことである。
「レイスの心にいるメティス。せんせー君の心にいるメティス。これは全く同じメティスとは限らない」
「あ、わかります。誰かにとって、たとえばメティスさんが同じような存在とは限らないですもんね」
「そうね、グリンちゃんの言うとおり。けれど、そのときどっちかの心にいるメティスが偽物って、言える?」
 ややあってレイスがぼそりと「言えないね」と答えた。
「ええ、言えないわ。だから「その人にとって」というのがつく。私、心だけの期間がとても長かったけど、心ってすごく不安定なの。だんだん自分を知る人が居なくなっていって、そして誰の心にも残ってないとき、心は消えていく。けれど、そんな風に移ろいやすいからこそ、元に戻ってくることもできる。そんな風なものじゃないかしら、心って」
 うんうんと頷くレイスアールとグリン。
「で、最初の話に戻るけれど、せんせー君の心の中にレイスはいたのよね?」
「うん」
「そのとき、せんせー君にとってのレイスがたくさんいた、って言ったわよね? 実際私も、たーくさん出会ったけれど」
「そうなの。いっぱい居た。どれが私なのかわからなくなるくらい。「せんせーの中の私」は同じことしか繰り返さないから自分がレイスだってわかったけど」
「そうだったのね。それはそれとして、さっきの話からすると、せんせー君の心のレイスは彼にとっては本物なのよ。今貴女か言ったように同じことしか繰り返さなくても。だから、本当に本物の貴女が混じっていてもわからなくて当然だわ。だから、彼を責めちゃダメよ、レイス」
「……わかった。せんせーにとってはあの私も、今の私も本物なんだね」
「よくできました」
 隣に座るレイスアールの頭を、小さい子どもにするようになでてやるカルネ。その横顔にほんの少しの寂しさをグリンは感じた。
「……カルネさん。心だけで居たとき……どんな気持ちでした? ……あっ、でも、答えたくないなら、別にいいですから、ごめんなさい……」
 聞いた後に一人焦って手を顔の目の前で振る少女にカルネは笑いかけた。
「別にそんなことはないのよ。聞いてくれるって、なんだか嬉しいわね」
「そ、そうですか?」
 ええ、と大きく頷いてくれたのでグリンも少しほっとする。
「怖くはなかったの。強がって言ってるわけじゃないのよ」
 少女たちが不安そうにカルネを見つめるのでなだめるように付け加えた。
「でも、さっきカルネ言ったよ? 誰の心の中にもいなくなったとき……って」
「ええ、言ったわね。でもそれは絶対ないことは知ってた。だって、あのブラックですもの。それに心によけいなものを入れて中身が消えてしまわないように、悪意ですっかり塗り固められてたんだから」
 おかげでブラックの心に入ろうにも入れなかったわ、と肩をすくめる。
「消える怖さはなかった。ただ……少し怒ってて、少し寂しかった」
 天使を作る方法をしっているブラックなのに。器と、魂と、心の三つがそろってることを知っているのにちっとも心を迎えにこない。いつしか地獄に迷い込み地獄番ばかりを相手にする日々。迎えに来たと思ったら魂だけつれてかえってしまう。
「それは怒るわ……」
 グリンが渋面になっている。
「私だったら心のままでも怒りに行っちゃいそうです」
「そうね、私もそうしたのよ。でもブラックの心はあの通り悪意に満ちていてよそに目を向けてくれない。そうこうするうちに地獄で動けなくなっちゃって、そうなったらずーっと地獄番さんがいて抜け出せなくなっちゃったのよ」
 居心地は悪くなかったんだけどね、と片目を閉じるカルネ。
「そして……このままブラック以外の誰も彼もから忘れられてしまうのかな……って考えてたわ。それが少し寂しかった」
「……」
「……」
 二人はすっかり黙り込んでしまった。自分がそうだったらどうだろう。ずっと、あの地獄の底でただ一人。みんなに忘れられていって、そして心が消える。
 ついにグリンが涙ぐみ始めた。レイスアールも涙目だ。
「あらあら二人とも、どうしたの?」
「だって、だってカルネ……」
「うん……うん……」
 言葉にならない思いをカルネは感じる。
「ありがとう二人とも。いい子たちね」
「今は……寂しくない?」
「もちろん。貴女たちみたいなかわいい子がいるし、ブラックだってちゃんと気がついてくれてるんだから。でも仕返しはしないとね」
 茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせる天使に少女たちも落ち着いた。
「それよりせんせー君の心の話じゃなかったの? もっと聞きたくない?」
「あ、聞きたいです」
 涙を拭きながらちゃっかりとお願いするグリン。
「うふふ、いいわよ」
 と、せんせーの心のあれこれを話す女三人。いつの間にかグリンは取り出していたメモ帳と筆記用具でなにやら書き付けている。
 一通りカルネの話が終わるとレイスアールもグリンも頬を真っ赤に染めていた。
「あら二人ともかわいい」
「あはは、すっかり当てられちゃいました。いいなあレイスちゃん……」
「……なんかそう言う話をいっぱい聞くと、しかも自分に関わることだとすごぉく照れくさいや」
 頭を掻き掻き、手で扇ぐまねをするレイスアール。そんな様子を見て、ブラックは女心には完全に疎いのに、女の子の天使を見事に作り上げているのはどういうわけなんだと素朴な疑問が浮かぶグリン。けれどそれはそう言うものなのかと納得することにした。
「あ、そうだ!」
「ん?」
「今でもせんせーさんの心の中に行こうと思ったらいけるんですよね? じゃあ私も直接みれるかな?」
 興奮した様子でグリンが提案。けれどカルネが少し残念そうに頭を横に振った。
「それがねぇ。彼も心をガードする方法を覚えちゃったのよ。だから行けることは行けるけど、もうそこまであからさまにこころをむき出しにしてくれることはないのよね。やっぱり警戒させちゃったかしら……」
 立て続けに心に、自分の育てた誰かでない心がいるのは堪えたのか、すっかりそう言うところを封印してしまった。おもしろくないわ、とカルネが口をとがらせる。けれどレイスアールはそれでいいとも思った。自身がそういう風に、秘密にしておきたい思いもみんな覗かれてしまうのは嫌に決まっている。
「そうなんですか……うん、でもいっぱいお話聞けたからそれでよし、です!」
「グリン、メモまで取ってたけどお話聞いてどうするの?」
「へへへへ」
 にっこりと笑うだけで、結局天使たちはその場では教えてもらえなかった。


 やがて魔界を中心に一冊の本が出回った。作者は不詳だが、心の動きがとても丁寧に描かれていると評判の恋愛小説。読んだ者皆うっとりとその世界に酔いしれ、どこかの空間では戯曲化するという話まででている。有名作家が覆面で出したんだ、いや完全に新人だ、いろいろなうわさが飛び交った。
 ちなみに本とは無縁なシルバーの部屋にも一冊ある。これでも読んで女心を知れ、と領主に渡されたとか。心から『余計なお世話だ、あんたに言われたくない』とシルバーが言ったとか言わないとか……そんな些末なことまで噂に含まれていたとか。


END


 ただただ女の子たちがしゃべってるだけの話。端的に言うと。端的に言い過ぎた気がするけど。心ってなんだろね。
 2012.3.3

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