「ルー君がんばって!」
 ルドルフが感じる中でヒマリの手が唯一の熱源。前方どころかどこを向いても何も見えない。雪の一片一片が鋭い刃になって身を切り裂く。そして魔物よりも雪よりも、決して暖めることをしない空気が一番の敵だった。
「あそこ! わかる? 洞窟があるから、とりあえず休憩しよう!」
「わかった!」
 実際のところ彼の目には何も見えていない。ヒマリの手に引かれついて行って、ようやく洞窟の口を見つけた。
「火を起こせそうなものは……ないか」
 奥に行ってもすぐ行き止まり、火種になるようなものは何一つない。仕方がないので出来るだけ入り口から離れて体をくっつけあう。
「ヒマリ……」
「どうしたの?」
「多分……この雪、いつまでもこのまま」
「……」
「ここにいればいるほど、きっと体力を失う」
 ヒマリもそれはわかっているようで頷いた。
「じゃあいったん戻る? 今ならまだ戻れる。登山口はここから見えてたから」
 彼女の提案に少し考えたが結局ルドルフは頭を振った。今いけなければ今後何度挑戦しても無理だろう。
「わかった。ただちょっと足だけでも防寒増やすから待ってて」
 言いながら持っていた鞄から大きな布を取り出した。普段寝るのに使っているものだと青年が思う間もなく一気にナイフで引き裂く。
「ヒマリ?」
「これをね、足に巻くの。少しはきっとましになる」
「でもそれ……」
「大丈夫、また手に入れればいい。アーロンアーロンに聞けばどうにかしてくれるでしょ」
 島中からいろんな者を拾ってきては売りつける男を思い出しながらヒマリは笑った。
「ほらルー君も」
「うん……」
 差し出された布キレを受け取り、かじかむ手で巻いていく。そうこうするうちに不思議と手がきちんと動くようになってきた。
「余ったね。手にも巻いとこう」
「それいい」
 ヒマリがルドルフの提案に乗り自分の手に巻く。
「うーん、だいぶんましになった気がする。あんまり変わんない気もするけど」
 頭を掻いて苦笑いする彼女に、なぜついてきてくれているのかとふと思う。
 この山はルドルフの山。そんなことはわかっているはず。元々何もなかった崖なのだから。
「ねえヒマリ。どうして……こんなにしてくれるの?」
「んー? だって、ルー君困ってたじゃない」
「……それは、そうだけど」
「困ってるから助ける。それだけだよ。たまたまとはいえ、同じネグラの仲間だもの」
「なかま」
 ヒマリの言葉を繰り返す。なかま。仲間。今まで考えたこともなかったこと。

「しっかしこれはまた、すごいの想像したねぇルー君」
「え……でも、ひとりでこれくらいの吹雪、過ごしたことある……」
「そうなの!? よく生きてたね……」
 小さな子どもにするようにルドルフの頭を優しく撫でる女に、くすぐったいようなうれしいような不思議な気分になった。
「なるほど、じゃあこれは君が考える一番の試練なわけね。ほんと話に聞いてたとおりだなー」
「聞いてた?」
「うん。昔、この島で、もちろんそのときは雪山じゃなかったみたいだけど、その人の考える一番の試練を伴って、その人を惑わすもの、断ち切らなければならないものが敵として現れたことがあったんだって。そんなことを人から聞いてたから」
「へえ……」
「昔から不思議な島って言われてたみたいだし、そういうことにもしかしたらあうかな、と思ってたけど」
「ヒマリは、よく知っているね」
「うーん……ま、そういうことね」
 いつものヒマリとは少し違う反応。どこか歯切れが悪い。が、すぐ寒さにそんな考えは覆い隠されてしまう。
「そんなことより話が本当だったんだから、断ち切るべき何かがこの山の上にあると思ってた方がいいよルー君。薬は温存で行こう。私もがんばるから」
「うん」
 言い合って立ち上がる。ふれあっていた部分はかすかにでも暖まっていたのか、離れたとたんに恐ろしいほどの寒さを感じさせる。
「大丈夫ルー君?」
「ぼくは、大丈夫。ヒマリは?」
 答えの代わりに満面の笑顔が返ってきた。それをみたルドルフはなんとなく心が落ち着く。
「じゃあ、行こう。手は離さないで」
「わかった。先導はぼくがする」
「その方がいいね」
 彼の山。彼が登るべき山。彼の行きたい方、行こうとする方へ向かうのが一番だ。
 もう一度あの吹雪の中へ。行きたいわけではない。あのとき、生きていられただけで奇跡だった朝を思い出す。それが繰り返されるのか。それとも。
「変なこと考えちゃだめだよ。全部、それ反映してくる。考えたでしょ」
 少しだけからかうような声音でヒマリがたしなめる。ふと彼女の肩越しに見れば氷で出来た少女が立っているではないか。
「ああいうの、なんか、本で読んだ気がする……」
「あー、なるほど、何となくわかる……んだけど!」
 明らかに向こうは敵意を持っていた。
「ルー君これ」
「……これは」
「雪花園で見つけた剣。古いけどまだ十分使えると思う」
「……」
 ヒマリに渡された剣。見覚えがある。これは。これは。
「いくよ!」
 吹雪に負けないようにヒマリが声を上げた。ルドルフも、剣の重さと寒さと戦いながら立ち向かう。しかし思うように得物がふるえない。
「ヒマリ! 右!」
 吹雪で見え隠れする氷の少女がヒマリを手に掛けようと長く伸びた爪を振り上げている。けれどヒマリの方は現れた新手の相手で手がいっぱいでそちらにまで対応しきれない。
「うわああっ!」
 嫌だ。ぼくの為にわざわざこんな雪山を登ってくれてるこんな人を失いたくない。
 無我夢中で剣を振り回す。もう少しまともに剣を振れるようにしておけばよかったと心底後悔したが仕方ない。おまけにルドルフには少し大きな剣だったがそれでもなんとか少女に当たった。ヒマリに向いていたうつろな瞳が彼の方に向く。
「そうだ、こっちに来い!」
 確かにその瞬間彼はみた。その瞳に怒りの凍火が起こったのを。けれどルドルフは怯まない。
 怒りは周囲を見えなくする。それは魔物も変わらず。この少女もご多分に漏れずまっすぐ青年に向かってきた。
 ルドルフはそれを待っていた。吐きかけられる氷に少しだけ体は固まるが、それ以上に戦闘の興奮ですぐ溶けていく。
 少女には見えていない。不自然に下げられた切っ先を。まっすぐ、ただまっすぐルドルフに向かって。
「!」
 何か叫んだかもしれないがとにかくその瞬間、一気に下から刃を持ち上げる。

「ふー、何とかなったね」
「うん」
「あんまり考えてほしくはないんだけど、これはこれで運動になるから暖かいってのが皮肉だわー」
 氷の欠片を払いながらヒマリが苦笑いをする。実際のところ、さっきの戦闘のおかげでかなり体が動くようになった。
「あ、ヒマリこれ……」
 渡されていた大剣を持ち上げる。
「いいよ、ルー君が持ってて。私にはちょっと重すぎるんだ。それにさ」
 ルドルフに笑いかける。
「なんかある……でしょ?」
「……」
 あの短い刹那にそこまで見抜いていたのかと少し驚くルドルフ。その観察眼に思わず舌を巻いた。
 あのころの記憶は凶悪な寒さと飢餓で大半を占められているのだが、ほかの記憶もあるにはある。自分をこの島につれてきた男のこと。顔は思い出せない。けれどよく笑う男だった。そして、確か、その男が使っていて、残していった剣。
「……そうなんだ。勝手に持って来ちゃってごめん。なんかに使えるかなって思ったんだけど……」
「いいんだ。ぼくも、どこにあったか忘れてて探してたくらいだから」
「そっか。そう言ってもらえるとうれしい」
 そしてまた山頂をめざし一歩一歩。
「まあとにかく、その剣はルー君が使うといいよ。私には重すぎるけどきっとルー君ならすぐ慣れると思う」
「だといいんだけど……さっきはどっちかって言うと振り回された感じだった」
「あはは、わかるわかる。初めて持った武器とか、なんか振り回されちゃうんだよね。慣れるまでにしばらくかかるけど、慣れちゃえばなんとかなるよ」
 あっけらかんと笑うヒマリに、不思議と心が温かくなってきた。今まで何度か挑戦したこの山。場所は違うし、雪山でもなかったけれど、あれはこの山だった。そしてことごとく敗走してきた。
「……今度は、いけるかな」
 心の中のわだかまり。一人で乗り越えなければならないと思っていた堅い堅い氷のような思い。ほんの少しずつだけれど、溶けだしたような気がする。
「ねえヒマリ……」
「んー?」
 後ろから聞こえる、少し暢気な声に安心。
「ぼくさ……こういうのは、一人で超えなきゃいけないって思ってたんだ」
「うん」
「けど、ぼくは弱いから、一人ではダメだったのかな」
 弱音ではない。周りの景色は変わっていない。しばらくの間ヒマリは黙ってルドルフの手を強く握る。
「弱いのは、悪いことじゃないんだよ。もし弱くても、誰かと一緒にいてそして乗り越えられるっていうなら、それがまるごとその人の力なんだと思う。そういう人と助け合える、っていう強い力があるから」
「うん……」
「というかルー君は弱くないと思うし、私も対して強くなんかないよぉ。ごめんねー」
 笑いをふくんだ明るい声に心がまた暖かくなる。
「いいよ。ありがとうヒマリ。ちょっと気が楽になった」
「どういたしまして」
 まだまだ先は長いし寒さは厳しい。けれど今までとは違う。もしかしたら……。手の温かさを感じていると、そんな風に思えるのだった。

 十数回の戦いを経てようやく開けたところに出た。多少なりとも吹雪が収まったのがありがたい。おそらく頂上。ルドルフは全身が総毛立っているのがわかった。きっと、きっとここに。
「足下は……まあ、安定してるかな」
 ヒマリが、大立ち回りになったときに備えてか歩ける範囲を見て回っている。むしろ体が冷え切っていざというときに動けないのを回避するためじゃないかと思い当たり、ルドルフもヒマリの後を追って歩く。少しばかりの吹雪が収まったとはいえもともとが酷く寒いのだ、きちんと体は動くようにしておかなければならない。
 どれぐらい経ったのだろうか。空は相変わらずの吹雪で変わらずわからない。
「上っ!」
 隣に立っていたヒマリを押し倒すようにその場から動かす。直後、明らかに毒々しい色の何かが吐きかけられた。
「な、な、な……」
 空に浮かんだ異形がこちらを見ている。真っ黒で虚ろな、きっと目だろうと思われる部分をこちらに向けて。
「なななな」
「ヒマリ、しっかりして!」
「なな、何これ!?」
 あまりにも想像とかけ離れた存在過ぎてヒマリは思わず状況に合わない間抜けた質問をしてしまう。
「え……白竜……」
「えっ?」
 ルドルフと、空に浮かぶ得体の知れないものを交互に見比べる。しばらくその状態だったが異形の方がしびれを切らしたか、再び毒ガスらしきものを吐き出してきた。あわてて飛び退く。
「と、とりあえずなんだかわかんないけど敵意ありまくりだから、考えるのは後! あいつ下に引きずりおろさなきゃ!」
 向こうは浮いていてこちらは地上。明らかに不利だ。下にさえ落とせば対処法は何かあるだろう。
「……木目があるんだね……木だったりするのかな?」
 よくわからないけれど燃やせるんだろうか、ととりあえず火球を生み出す。だが直後吹いた強い風に千切りとばされる。
「あーもう!」
「ヒマリ、ぼくが!」
 大剣を振り回して軽々とあの異形と渡り合っている青年に一瞬目を奪われた。
「あ、やっぱり……ここはルー君の場なんだ……」
 角のように生えた枝が体にとりついたルドルフを払い落とす。積もった雪の上に落ちるためかそれほど落下のダメージはない。が、多少動きは鈍くなる。そこにまたガスが吹き付けた。
「ええーいっ!!」
 一か八か。分厚い本に紐を巻き付けそれを異形に投げつけるヒマリ。当たって注意をこちらに向けられるなら僥倖、当たらなければまたやり直す。
 が、幸運はほんの少しだけヒマリに味方をしたようだ。端ではあるが枝角に引っかかり異形がバランスを崩す。すかさず紐を引けば落ちはしないものの大きく体が崩れた。そこで本が外れる。
 もう一度。さすがに今度はうまくかからない。逆にこちらに向かって猛烈なスピードで枝角を延ばしヒマリをからめ取った。懐から短剣を引っ張り出してなんとか引きはがそうとするも枝角ははがれそうにない。逆にギリギリと締め上げてくる。
「こっちだ! ヒマリを放せ!」
 再び浮き上がろうとする異形にルドルフがとりついた。その手には輝く何か。ヒマリからは死角になってうまく見えないものの異形がかすかに身動ぎした。
 ガスを吐き出そうとするその口に、青年が懐から取り出したものをつっこんだ。思わぬ攻撃だったのだろう、ヒマリを締め上げる力が少しゆるむ。逃さず抜け出した。
「ルー君、いったい何したの!?」
「雪玉!」
「ああ……」
 ガチガチに固まった氷のような雪玉が足下にあった。あのガスをどうにかして止めたいと思ったらかってに体が動いていたという。
「ははは、雪玉かぁ。それは考えつかなかった」
 ヒマリはそれまで握っていた本を置き改めて自分の剣を引き抜く。ルドルフも大剣を構えて異形をにらみつけていた。
 合図は特にない。ただ、今このときだと信じて駆ける。敵はガスが吐けず身悶えするばかりだ。
 ヒマリは脇を駆け抜けて胴を横なぎに。
 ルドルフは地面を蹴り異形の真上へ。そのまま剣を振り下ろし落ちる勢いでもって頭を叩き割った。
「やった!?」
「……みたい」
 興奮して青年の手を握って大きく上下させるヒマリと対照的に何が起きたかいままだ把握していないと言った様相のルドルフ。
「すごいねールー君。今度教えて」
「え……と。正直、よくわからない……」
 黙って放してもらった手をみるくらいしか今はどうにもできなさそうだ。
「ルー君ルー君」
 ヒマリがちょんちょんと肩をつつく。そちらを見れば、この上もない笑顔が待っていた。
「おめでとう、ルー君。君は、君の中の何かを乗り越えられたね」
 心からのおめでとう。今までそんな風に言われたことがなかったが、とても気持ちのいいものだと感じる。次第に白くなる周囲にその笑顔も少しずつとけて行くが、彼は生涯忘れまいと心に刻んだ。



 気がつけば視界が戻っていた。周囲を見渡せば、もはや懐かしい感じさえする雪花園。
「……終わったんだ……」
 ヒマリから少し離れたところでルドルフがつぶやく。
「ぼくは……」
 あとは声にならない。思いは彼の心の内にしまわれた。なかったものとして追いやるのではなく、一つの片付いた事象として。
「あと一つ……やらなきゃ……」
「いいよ。ここまできたならおつきあいするから」
 ヒマリが笑う。傷だらけの体に何もいわず、余っていた薬を差し出すと、ようやく気づいたというように照れくさそうに頭を掻いた。
「ありがと。薬使う暇もなかったねぇ。あんなに寒かったら薬瓶落としそうだけど」
「あれは……ぼくが、知ってる、一番寒い夜だった」
「……」
 心の内がありありと実体化してしまう現象。なぜかはわからないが昔から島ではそういう不思議な空間が生まれた。幾人もが己の試練に挑みそして帰ってこなかった人も多い。
 ルドルフの生い立ちはよくわからないが幼い頃にこの島に来て、よりにもよってこの雪花園にいたとネグラで聞いた。基本的には寒いが吹雪くことは滅多にないこの場所。それでも数年に一度、大吹雪の夜があったというが。
「世の瀬に行くよ」
「あ、うん……」
 途中ネグラに寄って紙の束を持ち出す。
 瀬は変わらず流れていて、ほとりに彼はしゃがみ込んだ。少し離れてそれを見守るヒマリ。
 そして。
「あ」
「ぼくの物語は、完結した。だから瀬に返す」
 紙の束はルドルフの手を離れて瀬の流れに乗り、遠く、遠くへと旅立っていく。
「……」
「手伝ってくれてありがとうヒマリ」
「なんでもないのよ、気にしなーい」
 おもむろに立ち上がり微笑んでいる青年に、照れ隠しでわざとオーバーアクション気味になる。
「今度は、ぼくが君を手伝う番」
「え?」
「少しでも、君の助けになれたら……って」
「……ありがとう」
 正直な話かなりありがたい。これからどんどん敵も強くなるだろう。何が起こるか全くわからないこの状況で、同行者が増えてくれるのは心強い。
「じゃあ、これからも改めてよろしくルー君」
 ヒマリが差し出した利き手をしっかりと握り返してくる。あまり表情の変化がない男だが内にはしっかりと感情が渦巻いている、それを強く感じさせるように。
「……あ、そうだ。雪山のアレ。いったい何を想像したの?」
 あまりに異形すぎてこちらの意表をつかれてしまった。たいした攻撃をしてこなかったのが幸いだが。
「白竜だよ」
「は、く……?」
 あれのどこが竜なのだろう。いろいろと書物は好んで読んだがアレを竜とは十人中十人が言うまい。
「昔ぼくと暮らしていた人が教えてくれた。竜はとても大きくて、空を飛んで、口から何かを吐くんだって」
「うん……まあ間違ってないけど」
 きっと、ルドルフは竜が何かは知っていてもどんな姿をしているのかは知らないのだろう。そしてあの木目。枝。島の奥の方には巨木がいくらかある。
「……多分、大きいものっていったらルー君にとっては木だったんだろうね……」
「ん? どうかした?」
「いいや、何でもない……」
 このままにしておいていいのか。きちんと竜について教えてあげた方がいいのか。悩むところではあるが。
「とりあえず行こうか」
「わかった」
 きっと先は長いのだ。その間に話の種になることもあるだろう。そんなことは些末なことだ。
「もう寒いところはしばらくいいや」
「同感」
「水辺にでも行ってバカンスとしゃれ込むかなー」
「危ないって」
 いいじゃない、と進むヒマリをあわてて追いかけるルドルフ。瀬の水は変わらず流れていくのだった。


END


 はく竜。私の場合、「倒したなぁ。で竜はどこ?」だったw しかしルドルフはほんと良く生きてたと思う。
 2012.2.23

戻る