尖塔の一つに登って近在の集落を眺める。恐ろしくなるほど速いスピードでいろいろな事が変わっていく。どういう意味か良く分からなかったが、滅多に動きのない城内に比べて面白さを感じた。同時に何か、心が震える感じも。集落だけではなく周りの様子も変わる。木々の集まりは外を見るたびに移動し色が変わる部分があり、山の形も変わっていることがあった。
 一度、城にいる年老いた乳母に聞いてみたことがある。かつて天上を駆る神馬で、その速さを奢った為魔物として落とされた彼女は、アルウェンの母の乳母もしたという。
「変化、というものですよ、姫様。この城の中のものも、外のものも。もちろん姫様も。同じままではいられぬものなのです。昨日の姫様は、今日の姫様と全く同じですか?」
「……ええと……」
 乳母の問いかけは、まだ幼すぎるアルウェンには理解できない。乳母も答えを求めようとしたわけではないのだろう、もうほとんど開いていない目を優しく曲げ、アルウェンの頭を撫でた。

 城には結界が張られているがアルウェンにとっては薄布より気にならないほどのもの。自分自身に力があることを理解しつつあった頃、夜に時折集落へ行ってみることがあった。そこに集落があると気付いてから少しずつその場所を広げてきた、人と呼ばれるものが住むところ。アルウェンの瞳には常に行き急いでいるように見える、そしてそれほど力ももっていないように見受けられる存在。一体何をしているのだろう、何で生きているのだろう。そんな疑問をもちながら。
 自分と違う存在である事は直感で理解していた。誰も教えてはくれなかったが、不用意な接触は恵まれぬ結果を残すことになりかねないことも知っていた彼女は、そっと一人の女を見守ってみることにした。他の浮遊島から「ヒコウキ」なる物体でやってきた女は一人でクリスタルバレーと人が呼ぶ場所に立つことが多かった。
 見えているのかいないのか、ムーンブリアの城を眺めるその瞳はアルウェンには読めない。ただじっと立つ姿になんとなく興味を覚えただけ。もちろん毎日見るわけではない。ただその頃に、わざわざ集落と反対側にあるクリスタルバレーまでやってきて佇むものなどいなかった。
 その頃、父が城にいないことが多く一抹の寂しさを感じていた事は否めない。人ほど親子の情愛は強くないものの、皆無ではなかった。
「ちちうえはどこに、いかれたのじゃ?」
 エントランスに集まる、厳つい父の部下たちに恐る恐る聞くが、忙しく動き回る彼らに幼いアルウェンは目に入らないのだろう、誰も答えをくれなかった。乳母に聞いてみても複雑な表情をして、
「姫様は何も心配する事はないのですよ」
 と繰り返すだけ。
 父に会えば会えたで心ここにあらずなのは見ただけでわかる。
「ちちうえ……どう、された? アルウェンにできること、ありますか?」
「……心配することはない。お前はきちんと、自分の力を正しく使えるように学ぶのがお前にできることだ。今が過ぎれば、お前の修練がどこまで進んでいるか確認をするからな」
「は、はいっ!」
 確認と聞いて背筋を伸ばした。父には幾度か魔法の手ほどきを受けておりその教え方はかなり疲れる。それに奇抜な方法だということも知っていた。以前に森に住むこぼると一族のところに身分を隠して遊びに行ったとき指摘されたのだ、普通はそんなに準備体操などしないのだということを。むしろ心を落ち着ける為魔法を使う前には何もしないのだと。
「いい返事だ」
 ぽんぽんと頭に手を置かれ父はにっこりと笑う。父の魔法の訓練はいまいち好きになれないがこの笑顔は大好きだった。
 折りしも満月の夜。父は部下と共にいずこかへ飛び立っていった。傍らに立つ乳母の着衣を力いっぱい掴み、月を背景に舞う父。これもよくあることだが今日はなぜか長く舞っていた気がする。
「アルウェンもあんなにとべるかな。すこしぐらいなら、とべるんだけど、すぐつかれちゃう」
「大丈夫ですよ姫様なら。すぐに疲れることなく舞うことができるようになるでしょう。……それにしても血筋でございますね。お母上も同じ事を仰っておりました」
「そうなの? ははうえも……」
 乳母はそっと眦を拭っている。
「ええ。お母上はすぐに上達されましたよ。そしてお父上のお父様……姫様にとってはおじい様に当たられる方に目通りなさる時には、それはもう華麗に舞ったとか」
「そうなんだ」
「他にも候補の方は幾人かいらしたそうですが、おじい様とお父上が二人して一瞬で気に入るほど、とのことでした」
「へえ。ははうえのことはちちうえからすこしだけ、きいている。ちちうえは、アルウェンは、ははうえによくにているというが……」
「そのとおりです姫様。今に、母上と同じように可憐で美しい方になられるでしょう。この乳母が保障いたしますとも」
 太鼓判を押されすっかりいい気分になったアルウェンは空を見上げた。もうとっくに父はいなくなっていたのだが、いつか必ず父と共に空を舞うのだと心に決めた。


 けれども。

 それからしばらくの時がたった。人の世界では赤子が子守りの手伝いをするようになるくらいの時間。アルウェンは一心不乱に読書を続けた。城の大書庫には幾千幾万とも言われる本が集まっていて、それらを文字通り彼女は貪り読んだ。少しでも魔法の力を上手く使いこなしたい。少しでも父の役に立ちたい。そう、あの時集まっていたものは、部下の中でも右腕とも精鋭とも呼ばれるクラスのものばかりではなかったか。
「いまならわかるよ。ちちうえは、たたかいにいかれたのだ。アルウェンはちからがまだないから、ちちうえのおともをすることができなかったのだ」
 先祖の記録を辿り、自分の血筋がなんなのか、そして何をしなければならないのかを理解し始めたアルウェンは、あの日の父や部下の様子の、本当の意味がわかった。どこかで何か、世界自体に悪影響を与えるものが生まれ、それを平定する為に出撃していった。
 そう、出撃だったのだ。いつもより長く舞った父。直前の会話。それはよほど強大な相手だったに違いない。だからまだ戻ってきていないのだ。
「いままでだって、どきどき、ちちうえはいなくなっていた。だから、それとおなじ」
 最悪を口に出してしまえば本当になるかもしれない。だからアルウェンは「父は帰る」としか言わないように心がけた。伴ってより一層書を読んだ。この城にいるかぎり食事の心配をしなくていいため何日も何日も書庫にこもる事もあった。自室に戻ると父の事を考えてしまいそうになる。
「それはだめ。アルウェンは、そんなによわいのは、だめ」
 それが魔法の言葉であるかのように呟きつづけた。

 書庫から出てきたときには嫌になるほど城の中が静まり返っていた。しばらく考えて気付いた。いつもなら気配を察した乳母がやってくるのにそれがない。一抹の不安を覚えながらエントランスへ。一人、見慣れぬものが立っている。
「……もしかして、まじょさま?」
「お? おうおう、姫様かい。久しいのぅ」
「おひさしぶりです」
 スカートの裾をつまみあげ社交界風の挨拶をしてみせるとことさらに老魔女ラーライラは喜んだ。
「すっかり見違えて。一人前のレディになる日ももうすぐじゃの」
「ありがとうございます……」
 褒められて嬉しくないわけではないが、なぜ今まで姿を見せなかった魔女がここにいるのだろう。それを聞こうとした矢先にラーライラのほうから声をかけられた。
「神馬からの、来てくれと頼まれたのじゃ。ちょうどついたところで、今からあやつのところにむかうのじゃが、姫様も行くかの?」
「……うん」
 なら、と連れ立って乳母の部屋へ向かう。ノックすると応えがあった。
「大魔女様、わざわざのご足労、本当にありがとうございます。そして姫様まで……」
「いやかまわんよ」
「!」
 ラーライラが落ち着いた声で返答するのに対しアルウェンは言葉を失った。神馬とはいえアルウェンと同じような姿をとってそばにいつづけた乳母が、その色を薄くしている。
「ね、ねえ……どうしたのそれ……」
「……」
 乳母はどう答えようかと逡巡した。それを汲んでか大魔女が口を開きかける。けれど結局乳母自身がアルウェンに説明を始めた。
「どうやらエスピナ様が私を許してくださったようです。天に戻り、そこで本来なさなければならなかった役目を果たさねばなりませぬ」
「どういうこと? ねえ、アルウェンのそばからいなくなっちゃうの?」
「……姫様は賢く、強いお方。天を見上げ凛と歩かれるに違いない。その時、駆ける私の姿を思い浮かべていただければ何より幸せなことはありません」
「……」
「姫様、もう離れておやりなさい。神馬はエスピナに仕え役を果たすもの」
「まじょさま……」
 ラーライラがアルウェンを抱きしめる。涙目になりながら、それでもアルウェンは泣かなかった。
「大魔女様、私がお頼みできる立場でないのは理解しております。けれど、姫様を……よろしく、お願いいたします」
「ああ……分かっているよ、あんたの用事はそれだったんだろ?」
 薄く笑う乳母。その間もどんどん薄くなり、やがて何かしらぼんやりしたものがあるようにしか見えなくなってしまった。
「姫様、私は貴女様と、お母上にお仕え出来た事を誇りに思います。天の仲間にも自慢しますよ」
「……ありがと、う」
 声は声として届かず心に響く。一筋の光だけを残し乳母は天に昇った。ラーライラはそっと目を閉じて送り、アルウェンは目を開きそれを刻み込んだ。


「あれ……あのひとが、いない」
 久々に尖塔に昇りクリスタルバレーを眺める。この時間なら必ずいるはずなのだが。いつもいると思い込んでいたため余計に拍子抜けをした。
「……」
 背の翼を広げ城を飛び出す。それほど間をおかずにあの女が住処としていた街へと降り立った。
「……いったいなにしようとしてるんだろう」
 名前はしらない。顔は、遠くから眺めているだけなのでなんとなくしかわからない。何らの接点もない女を一体どうやって捜せばいいのか。滝を見下ろす位置に腰掛けながらそっと溜息をついた。
 見渡すと街の様子が良く見える。なんとなく視線を動かしているうちに、人の集団が広場で騒いでいるのが見えた。誰かが寝ていて、その誰かをどこかへ運び出しているようだ。
「あのひとだ」
 横たわっているのは女。きっと間違いない、クリスタルバレーにいたあの女だ。
 空から追うと、「ヒコウキ」のたくさんあるところに行き「ヒコウキ」に乗ってどこかへ行ってしまった。見送りの人々の言葉が何気なく耳に飛び込んでくる。
「……結局この島の空気でもダメだったんだねぇ、あの人。もう五年くらいいたからいけると思ってたけど」
「今の状況じゃ治療法は空気の綺麗なところに行くしかないわけじゃない。よくあの水晶谷に行ってたよ」
「あそこはこの島じゃ一番空気綺麗なところだもんね。星が峰には昇る気しないし」
「そりゃあそこは確かに綺麗だろうが、無茶だろ……」
 「ヒコウキ」を追ってみようかと思ったがやめた。どこまで行くかわからないしあまり城を空けるわけにはいかない。現時点であの城は彼女のものなのだ。父が戻るまで守り抜かなければならない、彼女自身の場所。
 城に戻り、エントランスで佇む。父と母の肖像は変わりなく彼女を見下ろしている。
「あのときのことばが、わかるような、きがするよ」

 変化というものですよ、姫様

 乳母の言葉。人も、魔物も、自然も、もちろんアルウェン自身も変わっていかざるを得ない。それを痛いほど実感した。そして、人の慌しい生き様を眺めた時、面白さと同時に感じたのは変化に対する恐怖。まだ自分はそれに耐えられるほど強くない。
「ならつよくなる」
 そうすれば怖くない。きっと。
 そうやって心に決めた娘を、肖像画の中の両親は優しく見守っていた。


END


 不意にZWEI2の姫さん話が書きたくなってしまった。あの城に一人、舌足らずなしゃべりしかできない頃からいるってのはどういうことなんでしょうね。
 2009.9.25

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