<<MUSICA>>

 その部屋には今まで一度も入ったことがない。というよりも、そこに部屋があるとは僅かにも思っていなかった。気にも留めていなかった。開けてみようとしたがぱっと見てドアノブがどこにあるのか判らない。よくよく見れば、凝った意匠の一部が回るようになっていた。
 開けば埃のにおい。一体いつから使っていないのだろうか、蝶番は錆び嫌な音を立てる。
「……静かで良いかもしれない」
 最近ずっと屋敷はバタバタとしている。勉強の合間合間にあちこち覗き込んではみるが、どこに行っても歓迎されないので面白くなかった。しばらくここにいるのもいいかもしれない。
 後ろ手に戸を閉めれば、どこかに明り取りがあるのだろう、物の配置は分かった。
「物置?」
 普段使わないものが適度な間隔を空けて置かれている。布がかかっているものが大半で、その形から何かを推測しながら奥へ。ふと、一風変わった形のものがある。舞う埃を払い、そっと布をめくり上げてみると、古ぼけた楽器らしきもの。
「……変な形」
 丸みを帯びた背面は知っている楽器の中にない。けれど張られた弦が、バイオリンを思わせるのだ。誰のものだろうか? 埃のつもり具合から、ここ数年は確実に誰も触れていなさそうだ。当然手入れもされていないので、一部朽ちそうなところさえある。
 なんとなく、弦の一本を爪弾いてみる。頼りない音が部屋の中をこだました。
「これ……知ってる、気がする」
 もう一度はじく。もう一度。気がついたら一本弦が切れてしまったが、それにも気がつかず少年は呆然としていた。

  今は昔、まだ、眠りの歌が必要だった頃。暖炉の熱と光。子守唄を唄う母の声。物語を語る母の声。そして……誰かの音。ただただ幸せとしか覚えていない、黄金色の記憶。誰の音だったのだろう。
 母は幸せそうだった。自分も幸せだった。暖かい居心地のいいところ。それを守るように響く音。
 少年が今爪弾いた音は、まさにその記憶の音。母は楽器は弾けない。なら、母の傍にいた誰かが弾いていた? 

 ……あれは、誰だったのだろう。

 そして少年は楽器を抱きかかえ、茫洋とした記憶の海をしばし漂うのだった。


 リュートという楽器との出会いとか。多分、来し方行く末、彼の傍らには音楽がある。

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