<<夢幻飛行>>

 外に出よう。まだ仕事は残っているけれど、部下たちの様子を見ていなければならないけれど。唐突に降って沸いた思考は雑多なことを押しやる。心ははやり、体は動く。そうなるともうさすがのユリアでも止まれなかった。つんのめるように階段を駆け上がり、新月の星空が美しい空中庭園へ飛び出した。
「……」
 年に何度かはこういうことがある。季節を問わず、時間を問わず、唐突に。何もかもを弾き飛ばす。往々にして詰所で書類と格闘している時に起こる。
「……きっと逃避の一種なのだろう」
 肩をすくめ、いつものように庭園を回る。水の音が静かに響き、自分の気持ちがささくれ立っていたことに初めて気がついた。
 いつも空を見上げると月があった。暦に詳しいわけではないのだが、大体同じペースで飛び出してきているのに呆れていたところだった。が、今日は新月。強い光は無く、足元を照らす導力灯が一番灯りとして認識できるほどだ。珍しいなと星を見た。
 幼い頃より変わらないもの。目に入る光は、遥か昔に発せられたものだと昔聞いた。けれど、そんなことを言われてもそれを実感できるわけではない。
「それだけはあいつとは理解しあえなかったな」
 星空のことを生涯の学問と定めた親戚が居た。よく話を聞いたが、今ではもう半分も覚えていない。その親戚は流行り病に倒れもうこの世には居なかった。
「お前は今、あそこに居るのか? 人の世はどう見える?」
 答えはない。答えられても、そしてそれが否定的な内容であっても、ユリアにはどうすることも出来ない。自分が整理をつけるために呟く。様々な人の様々な感情。そして陰謀。王城のそこかしこで聞こえる権謀術数。自分は軍人だから関係ないと今まで気にしていなかったが、いまやそうも言っていられない地位になってしまった。
「……ふぅ」
 小さく溜息をつくと。
「こんなところで珍しい」
「……」
 目の前には一人の男。確かにまだこの国に滞在していて、時折あの事件の報告書を手伝ってはもらっていて、自分も剣舞を教えたりしているが。
「あ……ええと、それは?」
「俺にも原理はよくわからん。が、オリビエがどこか……この機械の感じはまず間違いなくラッセル博士だろうが、手に入れてきたのを取り上げた。丁度脱走現場に行き当たってな……」
 溜息をつくミュラー。組まれた腕はユリアの目の前でゆっくりと上下している。
「あまり長時間は無理だそうだ。ここで切れたら俺はヴァレリアで一泳ぎすることになるだろうが……」
 足元は地面についていない。そう、彼は浮いていた。
「あの……」
「ん?」
 そろそろ戻ると告げかかるのを制す。
「……自分も、飛んでみたい」
「……構わないが、いつ落ちるかわからんぞ?」
「いいです。自分も泳ぎはそんなに嫌いではない」
「貴女はいつも空を飛んでいるのにか?」
「ええ。何も無く、ただ風を感じてみたい」
「……」
 ミュラーがそっと手を伸ばす。恐る恐る握ると強く握り返された。その力強さを思う隙に庭園から連れ出される。

 機械は頼りないのかもしれない。けれどユリアは機械を持って飛んでいるわけではない。しっかりと落ちぬように握り締めてくれる、その一点。
「……ジークの気持ちは、こんな気持ちなのか」
 飛行船に乗って飛ぶのと、自力で風を感じて飛ぶことは違うのだ。艦長として、あの船で飛べば飛ぶほど切望していた。風を感じたいと。
 夜の風は冷たく、湖の冷気をふんだんに体にぶつけてきた。けれどそれも気持ちがいい。やや頼りないながらも高度を保ち、王都の光を眼下に展開させるには十分だった。
 鳥の目でこの街を見下ろす。普段幾度となくしていることなのに酷く新鮮だ。
「たまには好奇心の赴くままに行動をしてみるものだ。こんな事が起こるのならな」
「ふふふ。オリビエ殿のことをいえませんよ、少佐殿」
「全くだ」
 高らかに笑う。その瞬間、それは訪れた。
「うわっ!」
「なっ!」
 まずミュラーが落下をはじめる。それに引き寄せられ、ユリアも続く。すぐ下は湖で、それほど距離が離れていなかったのは幸いだ。盛大な水しぶきを上げて飛び込む。ややあって湖面に出てくる二つの頭。
「夜釣りを近くでしている人が居たなら申し訳ないところですね」
「余裕だな、貴女は」
 水を滴らせながら呆れ、それでも笑うミュラーを眺めながらユリアは別のことを考えていた。あの落下の直前、少しでも衝撃が女に行かないようにと庇った手があった。それは優しく、暖かく、強い力でユリアを抱きしめた。
「……」
 ほんの一瞬だけだったはずなのにまだ体が熱い。これはなんだろうと少し探ったがよくわからなかった。
「とりあえず上がるか。しばらくほうっておいたら勝手にまた導力が戻るらしい。そうしたらまた空中庭園に連れ戻そう」
「なかなか面白い機械ですね。ラッセル博士も冗談みたいなものを作る」
 それをオリビエに渡さなければなおいいのだが、と舌を出す様がおかしく、ユリアは笑いをこらえるのに少々努力を費やす羽目になった。


 好奇心は身を滅ぼすかそれとも幸運を招くか。水には落ちたが彼らは幸運なのでしょう。結構少佐もユリアさんも好奇心強そうな感じがしてます。ラッセル博士がドラえもん状態ですがまぁそこはそれ。博士だし(を)。

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