<時計塔>

 にわか雨に慌ててギルドの軒下に入った。どんどんと色が変わっていく道を見て、いつ止むかな、と顔を上げる。あちこちに積み上げられている資材も雨に洗われていた。
「……」
 若干エステルは後悔していた。よりにもよってここに入るとは。普段は足早に通り過ぎるか、裏道を通っているところなのに。
 雨はまだしばらく降り続きそうだ。恐る恐る視線を向ける。そこにはかつて、時計塔があった。

 戦役が終わって数ヶ月。ようやくロレントでも本格的に修復作業が行われ始めた。ボース側の被害の方が大きく、思ったほど資材が確保できなかったとカシウスがぼやいていたと思う。石が剥がれてしまっていた道や建物の壁、焼け焦げの跡がまだ残る看板。そういった傷痕が少しずつ直っていく。まだまだ時間がかかるだろうが、慣れ親しんだ街が戻ってくることを予感したエステルは嬉しかった。
 それになにより、父が今この街にいる。母を喪ったエステルにとってこの上なく心強い。街の人はみんな顔見知りで、会えばよくしてくれる。けれど争いで家を失ったものや家族を失ったものは多く、皆自分のことで精一杯なのだ。
「……とけい」
 瓦礫が完全に取り覗かれたのはつい最近だ。その頃までは街に入ることも嫌だった。優しく微笑む母が。いつもと同じ笑顔の母が。大きく、暖かく、いい匂いのする母が。居なくなったところ。
 死ぬということの意味は理解できる。もう二度と逢えないことも判っている。けれどもまだ折り合いがつかない。
 更地の上に降る雨は先程より激しい。水溜りで跳ね返る水滴と合わさり、そこに何があったのか覆い隠そうとしていた。
「……おかーさん」
 声に出して呟いてみる。呼べばいつだって応えた母だが応えるものはない。大きな朱の瞳が揺らぐ。今なら泣いても雨でごまかせるかもと肩を震わせた。
「……」
 すぐに涙が落ち始める。一旦落ち始めたら、もう自分で止められない。軒下に座り込み膝に顔を埋め、大声にならないように号泣した。
「……どーちたの?」
 しばらくして聞こえてきた舌足らずな声に顔を上げた。エステルよりももっと幼い少女がエステルを見下ろしていた。雨に塗れたのだろう、頭の先から足の先までびしょ濡れだ。
「あんたこそ……どーしたのよ」
「んー、んー、おにーたんみにきた」
「おにーさん?」
 舌足らずで説明不足の言葉からはなかなか理解できなかったが、どうやら時計塔の整備士が彼女のいう「おにーさん」のようだ。二十日に一度整備に来て、少女と他愛ない話をして帰っていく。
「今日は、こないんじゃないの?」
「くるもん!」
 家のカレンダーに印をつけてもらい、来るのを楽しみに待っているのだと。もうずっとずっとあっていないけれど、ここに必ずくるのだと。
「きても……あれじゃ……」
 半泣きの少女とそれまで号泣していたエステルは同時に更地をみた。
「くるもん! くるもん! くるもん!」
 止める間もなく、今だ雨の降り続く更地へ駆けていってしまった。そのまま放って置くことも出来ないエステルは仕方なく後を追う。
「ちょっと! ぬれるじゃない!」
「くるもん……」
 地面に座り込んで天を仰ぎ、大声で泣き始めた。その様子に影響されて、一旦おさまっていたエステルの涙も暴れ始めた。
「ぬれるじゃない!」
 殊更に怒鳴りながら少女を動かそうと必死だが、そこに縫いとめられたかのように動かない。やがてエステルも座り込み、二人して大声で泣き始めた。
「……!」
「……!」
 声にならない声を上げ二人は泣きつづける。在りし日の時計塔と、在りし日の人を思いながら。エステルは母とこの時計塔に登るのが好きだった。とても、好きだった。
 不意に顔に当たる雨が途絶える。はっとなって周りを見ると、カシウスが傘を差し出していた。
「まったく……心配かけさせおって」
「おとーさん……」
 しゃくりあげながら父を呼ぶと、にこりと笑ってくれた。
「ほら、そちらのチビさんも。お母さんが呼んでいるよ」
「……」
 今だに涙は止まっていないが少女はカシウスの手につかまる。エステルもその手につかまった。
「おいおい、一つの手に二人とは……」
 少し困った顔。自分は放しなさいといわれるんだろうか。不安に押されてまた涙が眼にたまる。
「……責任重大だな」
 エステルの葛藤を知ってか知らずか、カシウスは優しく笑った。

 未だに避難所も兼ねているホテルにその少女の家族はいた。カシウスとエステルに礼をいい、疲れ果てた表情で休む集団の中へ消えていく。
 帰ろうかという父の後を追って外に出るとまだ雨。差し掛けてくれる傘の恩恵を受けながら、そっとカシウスの手を強く握った。
「お、おとーさん」
「どうした?」
「おとーさんは……おかーさんいなくても、寂しくないの?」
 いつも飄々としていて、とても頼りがいのある父。ロレント復興の中心となって働く様を見ていると、とても寂しがっているようには見えなかった。
「……どう、見える?」
「……あんまり」
「エステルだって、そう見える」
「え……」
「でも、お父さんはさっきのエステルを見て、ようやくわかった。お前も寂しかったんだな。やっと、泣いたな」
 涙を流せることは幸せなのだ。そのことが判らないエステルは父の言葉を半分も理解できない。
「お父さんは……そりゃ、寂しいさ。でもお前がいるからな。お前までいなくなると俺は生きていけない」
 握り締めていた手が握り返された。顔を上げて父の表情を見ようとしても見えない。父が遠くを見ているような気がしてならなかった。
「おとーさん、いつまでロレントにいるの? またおしごとでしょ?」
 それ以上話題を続けていいものかどうか。子どもながらに話題を変えたほうがいいと、最近感じていた疑問をぶつけてみる。それまでは滅多に家に戻ってこなかったのだ。戻ってきた時はささやかながら家族でパーティをした。時折やってくる芸人一座の面々も交えて賑やかにするのがブライト家の習慣だ。
「お父さん、お仕事クビになったんだよ。だからこれからはこの街にいる」
「……クビ?」
「うん、クビ」
 おどけて片目を閉じる。理由は良くわからないが父はこれからずっとこの街にいるのだ。
「じゃ、毎日パーティだね!」
「うーん……それはどうだろうかな」
 呟きながら足を止めた。穏やかになってきた雨にぬれる跡地。エステルは知らず父にしがみ付いた。
「……エステル、ここは、このまま何にもない方がいいか? 元通りに時計があるほうがいいか?」
「……」
「ここはな、この街のシンボルのある場所。この街皆にとって大事な場所。お前も好きだったろう、レナと登るのが。さっきだってあんな年端も行かない子どもがこの塔を知り、愛している」
 ゆっくりと語られる言葉に小さく頷いた。
「だから、皆で協力して、元通りにしたいという話が出ている。……だがな」
 カシウスは屈み、エステルと目線を合わせた。
「お前には辛いことになるかもしれない。だから、お父さんは今、賛成も反対もしていない」
 真剣に娘の顔を覗き込んでくる父。普段の雰囲気は霧散していることに気が付いた。
 父は大事な話をしているんだ。
「おとーさん……」
「エステル、お前が嫌なら俺は反対をしよう。辛くてたまらないのならこの街からでよう。……そんなことを考えている時がある」
 ふと視線を外して地面を見た。
「……まあ、そのうち正直な気持ちを聞かせてくれ。とりあえず家に帰ろう」
 薄く微笑みをたたえて立ち上がり、エステルの手を取る。
「家まで競争するか?」
 破顔するカシウスに一瞬あっけにとられ、次の瞬間にはうん! と大きく返事をしていた。カシウスは傘を畳み足の調子を確かめている。それを確認して、父を待たずに走りはじめた。
「あっ、ずるいぞ!」
 三呼吸ほど遅れてカシウスも走り出した。少しずつ上がり始めた雨の中、父子は柔らかな刻を駆けていった。


  Ende.


 まだお父さんの慟哭を理解し切れてないどころか、自分の辛さも把握しきれてなかったような。時計塔を愛し、奪われ、それでもなおあの時計塔はエステルにとって母の思い出が家の次にある場所じゃないかと。で、賛成したと思ふ。

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