<にがトマト>


 実験室に主がいないのを確認し、コンスタンツェは温室に滑り込んだ。今日は資料の貸し出し返却が多く、予定時間よりも巡回が少し遅れた。よりにもよって自分の当番の日に多いとはと心で文句を言うが仕方がない。最低限の仕事はしておかないと司書の名が泣く。
 ひそかに回ってきていたリストと注意深く照らし合わせていく。葉の陰に隠れている物も余さずチェック。丁寧に、だが迅速に。この温室管理者であるレイが戻ってくれば、状況を説明するのが一気に難しくなる。ややあってコンスタンツェは愕然とした。
「……なんてこと!」
 昼にでき上がった最新のにがトマト個数リスト。三個足りない。よく見ると新しい切断面がある。
「こうしちゃいられないわ!」
 真剣な表情で医務室へ走っていった。
 その数分後に、サイレンと共に警戒放送が工房中に鳴り響いた。
『繰り返す、これは訓練ではない、これは訓練ではない!』
 ゾクっと背に冷たいものを走らせ、放送の次の言葉を待つ技術者たち。
『にがトマトが三個何者かに持ち去られた! 全にがトマト警戒グループへ告ぐ! コックドピストル発令、至急食堂を封鎖せよ! 繰り返す、にがトマトが三個何者かに持ち去られた! ……』
 図面を引いていたものが全員外に飛び出していく。設計主任も不安そうな顔で廊下に飛び出し、どたどたと慌しく食堂へ向かう面々を見送った。もしまかり間違って食堂のトマトに紛れ込んでしまったら。想像するだに恐ろしい。
「もうたくさんよ、あんなこと!」
 医務室ではミリアムが渋面で腕を組んでいた。一度誰かが食堂ににがトマトを持ち込んだせいで、その日の人事不省者の数はただ事ではなかった。一口食べれば死人でも目を覚ましかねない強烈な苦さに負けた工房の面々。一時は導力停止現象よりも中央工房を揺るがしたとまで言われるほどだ。開発したレイはいたって暢気で、
「へぇ、これって凄いんだ」
 の一言だけで終ったが。幾度か廃棄の申し入れをしたものの、市街の飲食店が大量に購入をしている。その収入は決して小さくなく、工房の収入源の一つになりつつある為強くいえない。
 ミリアムには信じがたいことだが、このトマトがなければ生きていけないという人種も工房にはいる。その一部の集団が、布教の為なのかにがトマトを拝借しては主に食堂へ持ち込んでいく。見た目では普通のトマトと変わらないので料理人たちも判別がつかないのだ。
「促成栽培なんか開発するから……っ!」
 大量の注文に備え、促成栽培用の肥料も合わせて開発されていて、これがまたよく効果を上げた。悔しいことににがトマト以外の植物にはまるで効果がないのだ。
「お願い……今度は何事もありませんように……」
 開いているベッドに縋りつきながら心から祈った。

「ヨッシャ! お前らは地下階から。そっちは屋上からだ」
 食堂の入り口で隊伍を組み、それにグスタフが指示を出している。
「俺たちは食糧庫のチェックに行くぞ! いいな、なにかあったらここにいるティータ坊に報告だ! ティータ坊、解るな? 一斉放送するんだぞ!」
「は、はい!」
 真剣な表情で指示を出されたティータも、ごくりと唾を飲み込みながら頷く。渋面のままグスタフが一歩食堂に足を踏み入れると、広い食事スペースのどこかから悲鳴が上がった。即座にそちらに集まる面々。トマトスープをすすっていた技術者が目を回してひっくり返っている。
「料理長! このスープはいつ作った!」
「さっき作ったばっかりだ! チックショウ、どこのどいつだよ!」
 寸胴に入っている料理を見ながら苦々しく吐き捨てた。その間に整備長はミリアムのところへ連れて行くよう指示し、今回の第一犠牲者に心で合掌をした。
「その中に全部入ってたらいいんだがな……」
「不幸中の幸いというやつだが……まだ食事時間が本格的に始まってなくてよかったよ。そうしたら阿鼻叫喚だ」
「……」
 一体何を思ってこんなものをこの世界に誕生させたのだ、あのレイという男は。誰かが報告もしたのだろう、ティータの声が放送に乗って犠牲者の出現と、少なくとも一個は料理に使われたことを流している。
『続いてもう一つ情報です。マードック工房長が、お部屋で倒れているのが発見されたよーです。近くには差し入れらしきスープがありました……』
「なんてこった。工房長、こんな時にトマトスープを口にするとは……」
「そんな、オレの作った料理を劇薬みたいに言わないでくれ。鬱になるから」
 うなだれる料理長は可哀相に思うが、疲れ果て、研究のことしか頭にない大半の技術者にとっては、にがトマトの入ったスープなど劇薬も同然である。グスタフ自身はそれほど嫌いではないあのトマトだが、大々的に言うとミリアムが激昂する。また、こう何度もコックドピストルが発令されていれば仕事にならない。毎日毎日、食事時間が近くなると戦場もかくやとばかりの緊張が工房中を支配するのにも辟易していた。
「来賓があるときなんか最悪だよ……前にトマト好きのラインフォルト技術主任が来た時にもホント、怖かった」
「だろうなぁ……普通にエントランスで商談してるやつらだって、何事かと思ってあたり見回してるぜ。どうにかしてくれ……」
 妙な噂もすでに立ちつつあるという。少なくともレイストンには確実に伝わっていて、工房でトマト料理は絶対に頼むなという不文律があるそうだ。
『新しい情報が入りましたー! 地下トンネル入り口付近で、一つ潰れたトマトを見つけたそうですー』
「……なんでそんなところにあるんだ……」
 ちょっと見にいってくると、部下たちを食堂に残してグスタフは階下へ。野次馬たちも集まっている。人垣を割っていくと確かに潰れたトマトが案内板の下に存在していた。
「あ、整備長、いいところに」
「なんだフェイ」
「これ。小動物の足跡」
 無愛想な女技術者が指し示す先には確かに足跡。
「ちょっと資料室行って動物・魔獣図鑑借り出して来い」
 ネコの足跡ではない。アントワーヌは最近はずっとレイストンに足を伸ばしていて工房には今いないのだ。が、念のため連絡も取ってもらうことにした。
「整備長、もって来ました!」
「おう。こいつの足跡は……と」
 ページを繰りながら足跡と見比べていく。
「……こいつか?」
「……グラスホッパー?」
 なんと言う名前だったか、新入りの地下搬入口要員が呟くのに頷く。
「……基本的に草食、自分より強そうなものに出会うと死んだ振り等を駆使して、その場から離脱を試みる気の弱い魔獣だったね」
 触るとふわふわだから結構好きだけどねとフェイが薄く笑っている。が、グスタフはそんなことは気にしていられない。
「整備長、アントワーヌはやはり基地にいるそうです。司令官殿が離さないとかで、それは確実です」
「またかよ……。まあいい、この足跡は……トンネルの奥に続いて行ってるのか。手が開いたやつ、俺について来い。根元確かめる」
 グスタフの後について数人がおっかなびっくりトンネルへ。しばらく行くと壁に小さな穴が開いている。そして、そこにヘタやトマトの破片らしきものが付着していた。
「……犯人はここを通っていけるやつらだったのか?」
「かもしれませんね。どうします? とりあえず塞ぎますか?」
「そうだな。こう何度も侵入されたら工房が工房として立ち行かなくなる」
 グスタフが頷くと、すぐに近くにあった廃材を使って穴を塞ぎ始める技術者たち。こういう作業はなれているのがなんとなくグスタフには嬉しかった。
「このトマト、結構新しいみたいですね。まだ濡れてら」
「じゃ、三つ目? もしくは、あの潰れたやつの片割れ?」
「後者のほうが認識としては正しいんじゃないか? とりあえずティータ坊に報告だ。原因らしきものがわかったってな」

 一行は地上に戻り、警戒態勢もラウンドハウスまで落ちてきた。だがもう一つの所在がはっきりしない。最初に見つけた鍋の中に二つとも入っていれば問題ないのだがと頭を抱える。人事不省の人間はもう一人増えて三人。ゼロにすることはできなかったのが悔しい。こっそりとにがトマト愛好家のグスタフとしては、こんな騒ぎのせいで生産中止になるほうが嫌だ。一度それだけはマードックに談判してやりたいと思う。
「毎年こんな調子なんですかね……」
 部下が誰かに聞かせるでもなくげっそりとした表情で呟いた。トマトの旬の時期、やはりにがトマトも収穫時期で、促成栽培肥料のおかげで採っても採っても採り切れない程できる。旬になって突然にがトマト被害も多くなったのなら、旬が終れば収まるとは踏んでいた。だが旬は毎年来るのだ。
「一回あぶり出しにかからないといけないな……方法間違えてたら意味がねぇ」
 後半は聞かれないように心で呟く。
『情報が入りましたー。最後のにがトマト、レイさんがもって歩いていましたー』
「なっ……!」
 息抜きに市街の友人と食事をし、そのときの話の種に持っていっていた。友人は警戒して食べず、結局そのまま持ち帰ってきた。
「なんて人騒がせなんだ……本人も、トマトも!」
 手のひらをこれでもかと握り締めて肩を震わせる整備長の横で、心底から安堵したと長い息を吐く部下たち。
 とりあえず旬の時期、現状の問題が片付くまでは、トマト料理を食堂で出さないようにするという決まりができたのは言うまでもない。


  Ende.


 「総員、第一種食堂配備! パターン赤! トマトです!」(By 伊吹さん)
 どうして工房舞台にするとヘンな方向に行くんだろう。一番大好きなところで、一番変なこと起こりそう。起こっても自力解決できる強さと懐の深さがありそうですね、ここは。

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