<ハーモニカ>


 音楽というにはあまりにも拙い、音にすらなっていない。暢気に草を食んでいた牛がうるさいというように尾を振った。
「んもう! お父さんったら、なんでこんなのをお土産にしたのかしら!」
 頬を膨らまし、先ほどから異音を発するそれを放り投げた。積まれた牧草の上におちたハーモニカは乾ききった牧草の色だ。
 近在の街に出稼ぎに出ていた父が戻ってきたのは夕べ。そろそろ新しい家族が生まれる。いつもならもう少し長くいるところを少し切り上げて帰ってきたのだった。
 半年振りぐらいに見た父に少し恥かしさを感じ、優しく頭を撫でてくれるのは嬉しかった。にこにこと笑っていると目の前に差し出されたのがハーモニカ。
『……これ何?』
『ハーモニカという楽器だそうだよ。カリンに似合うと思ってね』
『ふぅん?』
 見たことが無い形。この村の面々には楽器をたしなむほどの余裕はなく、楽器といえば教会にある鳴らないオルガンが頭に浮かぶ。
『まあ、これから大変なのに楽器なんか……』
 母親が大きいおなかを抱えて困った表情をしているが、それ以上は何も言わなかった。
『ねえお父さん、どんな音?』
『お父さんもそんなに上手くはないんだ。少し教えてはもらったけれど』
 娘への土産を何にしようかと悩んでいると素朴な音が聞こえてきた。街とはいえ規模は他の街に比べたら小さい方。帝都まで行けば珍しくも無いのだろうが、流しの芸人が立ち寄っていた。珍しいなと思いながらその音を聞いたとき、生まれ故郷の村を鮮明に思い出した。ハーモニカを吹いていた芸人に思わず声をかけて、予備に持っているというものを譲ってもらった。手にとって眺めれば、自分が見慣れた黄金色。気持ちよく乾いた牧草の色。
『まぁカリンなら飲み込みは早いだろうから、僕よりもっともっと上手くなるだろうね』
 簡単に音階を吹いてもらう少女。どこかで聞いた楽器の音とは全く違うそれに目を丸くした。
『気に入ってくれたかい?』
 父は微笑みながらハーモニカを手渡してくれた。確かにそのときは嬉しかった。
「ちっとも上手く吹けない」
 自分も牧草の上に寝転がった。晴れた空は高く、遠くでつがいの鳥が飛んでいくのが見える。うとうととしかかったが牛たちの様子も見ておかなくてはいけない。がんばって目を開ければ視線の先にハーモニカが輝いている。
「……きれいなのはきれいね」
 父が惹かれて買ってきたのもわかる気がした。だが上手く吹けない。カリンはハーモニカから目を離して逆側を向いた。
 自分の兄弟が生まれる。弟か、妹か。友達の何人かも兄弟がいたが、そんなにいいものだろうかと眺めていた。父母の愛情は自分から離れていく気がするし、隣近所のおじさんやおばさんだって生まれてくる子のことばかり。確かに父が自分のためにと買ってきてくれた土産は嬉しいのだが、なんとなく素直に喜べなくなってきた。
「こんなことしてるのだって、お母さんが外に出られないからなんだよね」
 牛の様子を眺め不機嫌になる。せっかく遊びにいこうと思ってもここ最近はずっと家の手伝いばかりだ。仲のいい友達は今日はどこに行ったんだっけ。小川で水遊びだっけ。それとも花輪作りだっけ。もうずいぶんとしていない。
「……遊びに行っちゃおうかな」
 呟き、起き上がってはみたが結局もう一度牧草の上に転がるのだった。

 それからしばらくして生まれた赤ん坊は男の子で、カリンの家は全てが彼を中心に回り始めた。父母はより赤ん坊の方ばかり見るようになるし、少女の仕事は増える。簡単な家事も、近所の女が来れないときはするようになった。なんとなく理不尽な気はしたものの、父親はまた近くに出稼ぎに出かけるし、母は赤ん坊にかかりっきりだ。仕方のないことなのかもしれない。
「でも、やっぱり遊びたいな」
 井戸の傍で洗い物をしていれば、走り回っている子どもたちの姿が嫌でも目に入る。ついこの間までは自分もその輪に入っていたはずなのに。
「……」
 まだ桶の中には皿が数枚残っている。いっそこのまま置きっ放しにして。
「ここにいたか、カリン」
「あ……お父さん」
「もう終るか? お父さんも手伝おう」
「……」
 父がカリンの持っていた布を取り上げ皿を手早く拭く。空っぽになったのを見て桶の中の水を排水路に流し込んだ。
「よし、お父さんこれもって帰ってくるよ。カリンはしばらくここにいろ。僕もすぐ戻ってくるから」
「……?」
 桶と食器を持って家に戻る父。ややあってまたすぐ戻ってきた。
「散歩でもしようか。最近ずっとうちのことをしてくれてたろう? 疲れているんじゃないか?」
「……」
 黙って父の手を握った。
「よし、じゃあどこへ行こうか。ちょっと遠出して、金の丘まで行ってみるか?」
「……」
 やはり黙ったまま頷く。そして、父が歩き出したのにあわせて一歩を踏み出した。
 それ以上は父はカリンに対し何も言わなかった。通り過ぎる顔見知りに挨拶をし、村はずれから街道を歩き始める。あまり遠出をしたことが無いカリンにとっては、村はずれから外に出ること自体がなにか悪いことをしているのではないかと思えてしまう。だが、父の言った金の丘に行くには街道を少し遠くまで行かなくてはならない。
 視界の端で小さな生物が動く。枝から枝へちょこまかと動く動物に見とれ立ち止まれば父も足を止めた。見えなくなるまでその場でとどまり、またゆっくりと歩き始める。やがて丘へ向かう細い道にたどり着き、父がやさしく手招きをした。
「カリンおいで。肩車だ」
「うん!」
 少し傾斜が掛かるその細い道を父娘は行く。たっぷりと時間をかけて進んでいった先にはそれほど大きくない丘があった。
「到着だ。いい気持ちだな」
「そうだね!」
 父の肩の上で得意げに辺りを見回す。少しだけ強めの風がカリンの髪を揺らしていった。金の丘と名前はあるが、今の時期は金色にはならない。収穫の頃、ここに自生する草も金色へ変わるのだ。
「……カリン、お父さん、明日またお出かけするよ」
「うん……」
「新しい家族が増えたから、お父さんはもっともっとがんばるよ」
「……」
「……カリン、弟できて、嬉しくないのかい?」
「……」
 父の問いかけに答えられない。うつむくと父の頭がある。柔らかい髪の毛に顔をうずめるようにつかまった。
「僕は君だって大好きだ。かけがえの無い僕の娘だ」
「……お父さん」
「だから、僕が大好きな赤ちゃんを、君にも好きになってもらいたい」
 一旦言葉を切ってカリンの方を向く。
「そうだ、まだ赤ちゃんには名前をつけていないんだ。お母さんとで一生懸命考えてるんだけどね。だから、今日帰ったらカリンも一緒に考えてくれるかな? カリンの力が必要なんだ」
「……うん、わかった」
 真摯に訴えかけてくる目。自分も必要なんだと思わせるに十分な。
「よし! じゃあもうちょっとだけここでいて、それから帰ろうか。お母さんはまぁ大丈夫だとは思うけど」
 若くしてカリンを産み、家畜を育てながら出稼ぎに出る夫を見送る母は強かった。いつかは自分もそうなりたいと思うほどに。
「そだね。お母さんなら大丈夫だけど」
「最近はカリンのお手伝いがあるから、大丈夫だって言ってたよ」
「ほんと?」
「嘘なんか言わないよ。カリン、いつもありがとう」
 やさしい父の声。それにあわせてどこからか、音が聞こえてきた。
「……なんだろ」
「歌? 誰だろうね?」
 風向きによっては街道を歩く旅人の会話が聞こえてくることがある。
「そういえばハーモニカ、どうした? 吹けるようになった?」
「あ……うん、ええと」
 ベッドの下に置いてある宝物入れの中にずっと入れっぱなしだ。
「たまには出してあげてくれ。道具は使ってもらわないと寂しがるんだから」
「嘘!」
「嘘じゃないぞ。今晩辺り、カリンの寝てるときに」
「やめてよー!」
 足をばたつかせると父が腰をおろした。カリンも地面に立つ。聞こえている歌は先程より近い気がした。
 風が葉を擦る音と、その歌に耳を傾ける。単純ながらに美しい旋律がカリンの頭に残った。
「ねえお父さん」
「なんだ?」
「今度のお土産はさ、あの歌教えてもらってきて。きれいな歌」
「……ああ、がんばってみる」
「そしたら、ハーモニカで吹けるようになってみる。弟に聞かせてあげる」
「それはいいな。僕にも、お母さんにもきかせてくれるかい?」
「もちろん!」
 しばらく笑っていなかったが、今は自然と笑顔が零れてきた。父が帰ってくる前に、あの歌を教えてくれるまでに、もう少しは音になるかな、と思いながら。



  Ende.


 別名:カリンパパのお話。ヨシュアという名前はカリンが付けたならなお良し。

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