空の道






 頬に水が当たる感触がして飛んだ意識が戻ってきた。
「雨か」
 少々なら問題ないがいきなり一気に降り出した。辺りを見回し、今のユリアと同じように慌てて商品を屋根の下に入れている露店を見つけそこへ。店主が飛び込んできたユリアに苦笑いをしながら布を差し出した。
「ありがとう」
「いや、こりゃお互い様ですよ。いきなりの攻撃だけはね」
 椅子を出してくれたのでお言葉に甘えて、と座る。
「美味しそうな果物だ。幾つか分けてくれるか?」
 お返しのつもりで目の前にある葡萄を指すと店主がにこにこと笑った。
「お目が高い。滅多にこの辺にゃ出回らない、リベールはラヴェンヌ地方の一級品ですよ」
「……リベールか」
 渡された葡萄を一つ千切り口に放り込む。確かにリベール産だ。味の良し悪しがはっきりわかるわけではないが、この味には覚えがある。自分が昔から慣れ親しんできた味だ。
 自然と視線がリベールの方向を向いた。雨の向こう側には祖国がある。きっと女王やクローゼが今ごろも国を治めている。
「何を考えているんだ?」
 そもそも長期休暇を取っているだけなのに何をそう過剰反応してしまうのだ。せっかくの休暇なのに。
 とはいえユリア自身は休暇を取りたいわけではなかった。上が休まなければ下が休めないということと、女王とクローゼ揃ってユリアに休暇を取れと命令してきた為だ。そうでもなければ三週間の休暇など絶対に取らない。それに確実に切り上げて仕事に戻る。それを見越してか、三週間ほど帝国に逗留する事になってしまった。
 今考えれば手回しのよいクローゼや女王の事だ、ミュラーと何がしかの計画を練るのなど造作もないことで、彼ははっきり言わないがそんなやりとりが薄らとあったような気配が見える。あれよあれよと言う間に帝国逗留が決まり、今長期泊まり客としてホテルで暮らしていた。このホテルも珍しく、自炊用の場がフロアの一角に作られていた。
「……」
 自炊はまだいい。いいのだが、なぜかミュラーが夕食をユリアのところに食べにくるのだ。それ以外特にたいしたことはなく、食べてしばらく他愛無い話をしてまた兵舎に戻っていってしまうのだが、戸惑いつつも段々それにそれに慣れてしまった。
「お姉さん、これオマケしとくよ。あんたリベールのお人だろ。懐かしいんじゃないかい?」
 店主が渡してきたのはロレント地方でしか取れない果物。外側はとても食べられそうにないように見えるのだが、中は白く柔らかい果肉で冷やして食べるとたまらなくおいしい。
「これは……なかなか滅多に本国でも出回らない。ご主人、これをおまけとしていただくのはちょっと……」
「いいんだよ、もうすぐここは閉店なんだ。もってても仕方ないからないね」
「そうなんですか……」
「ちょっと場所を替えてみようって思ってね。この辺、ずいぶんリベールのものが流れるようになったから段々ウマミが減ってきて。だからもう少し北に向かってみようと思う」
 少し寂しそうに店主が笑った。その辺りには疎いユリアだが、他に流通するようになったのならば仕方のないことなのかもしれないと頷いた。
「そろそろ雨も落ち着いてきたようだ。ご主人、ありがとう」
「なんの。また縁があったら寄ってくれ」
「ああ」
 小降りになってきたのを見計らいユリアは露店を飛び出す。まだ降り続きそうではあったがそろそろ今晩の食材を決めてしまわなければならない。小高い丘に惹かれてここまで着たが果物屋以外なかったのだけは失敗だった。


 だいたい来訪の時間は一定しており、現状が大してピリピリしていないということを示していた。それだけは心の底からほっとしている。軍人が忙しく立ち働くということは大小問わず戦争が近いということに他ならない。
 ただミュラーの来訪にはどうしても慣れない。何も自分のところでなくてもと思うのだが、強くいえないまま十日ほどが過ぎた。そろそろ非番が回ってくるそうなのでその日は一日ユリアといようか、などといったことも呟くのが聞こえた。嬉しいが嬉しくないというのが正直なところだ。
「あの……オリビエ殿は宜しいのですか?」
「非番の時にまで縛るような男ではない。それに後進も育てねばならん」
「確かに」
 ミュラーがいない間は当然ながら代理のものがオリビエの傍仕えをしている。ユリアのほうも当然、親衛隊の誰かが女王やクローゼに付かず離れずで護っているに違いない。
「私はいけませんね。自分が護る事ばかりを考えてしまい、人を育てるということを放棄してしまっているようです」
「こちらも似たようなものだ。ただ、最近別行動する事が多く、そんなこともきちんと考えなければいけないようになった」
 後もう一つはオリビエに他人を信じる練習をさせている。そう微かに続いた。なんと答えていいのかわからずユリアは黙る。
「ところでこれは? 見ない果物のようだが」
「たまたまリベールの果物を扱う露店に立ち寄って、そこの主人に分けてもらいました。本国でも滅多に出ないものです」
「それは楽しみだ」
 滅多にみせないような笑みで果物を眺めた。
 食事が終わり少し休んだ後はミュラーを兵舎に送っていく。別れ道まできてそれぞれの方向へ帰る。別れた後に何をするでもなく、ただしばらくの間リベールの方向を見ていた。
 どこに行っても、長期滞在するならまず初めにリベールの方向を確認する癖がある。自分には当たり前で、かつて部下に指摘されてはじめて気付いた。部下も隊長らしいと笑ってその場は終わった。
「やはり見るのか」
「えっ?」
 一瞬誰に何を言われたのかわからない。頭が事態を理解するのに鼓動二拍程度の時間を要した。声のした方を振り向けばもう行ったと思っていたミュラーがいる。
「俺を送ってくれた後には必ず見ているな。空に道があるかのように」
「えっ……あの、すいません」
「謝ることはない。気持ちはわかる。俺もリベールにいた頃は帝国の方をみたものだ」
「……」
 男は笑っている。笑っているが寂しそうだ。なぜそんな表情をするのか聞いてみたい気がして、すぐに思い当たった。
「では今度こそ行く。また明日、同じ時間に」
「はい……」
 またその場から去っていった。今度は目を離さず、曲がり角に背が消えるまで見送った。ミュラーもその視線を感じていたのか一度も振り返らなかった。
「……あの人は、きっと私にこの国にいて欲しい」
 この手の話題にはどうもついていけないユリアだがさすがにそれくらいは読める。幾度かそれに近い事も言われた事がある。けれど決してはっきりと告げなかった。その理由こそが今先ほどの行動だ。
「ごめんなさい。きっと、私は、どんなに不要だといわれようとも、あの国からきっと出ることは出来ない。今のままの私では」
 またリベールの方を向く。空は空。空の道はない。けれど、雲の切れ間にそれを探すようならばまだ自分は離れられないのだ。


 ユリアが帰国してからしばらくしてクローゼの元へ封書が届いた。ユリアは知る由もないし、クローゼも内容を喋るようなことはしなかったが、たった一度だけユリアをみて苦笑いをした。それに気付いたユリアが問い掛けると一言、前途多難ですねとつぶやいたという。

Ende.


 空の道は「ある」か「ない」か。「ある」方がロマンチックかな、と思うのですが今回はあえてそれを探すというパターンで書いてみました。ユリアさんは愛国者でまじめだから、国を出て行くことはなかなか出来ないんじゃないかと。ただそれが良い事なのかどうかはわからない。


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