百日戦役





 港が近い為、時折堂内にも威勢のいい声が飛び込んでくる。最初は静謐さが失われると嫌いはしたが今はそれがこの大聖堂の特徴だと思うようになった。二階の回廊から下の様子を見ると、数人の聖職者が思い思いに祈りを捧げている中、まだ若い女がいることに気がついた。
「……また来ているのですね」
「聖下……? いかがされましたか?」
 大司教を探しに来た神父がそっと声をかけた。あいまいに返事をして下を見つづける。
「……あの方、ですか」
「知っているですか?」
 神父の呟きに、ようやく視線を上げた。
「……先日、あまりな必死さが気になり……声をかけたことが」
「……」
 やはり、誰が見てもあの女性は必死だ。何がそこまで追い詰めるのか。
「出兵したそうです」
「そうですか……」
 その前線で何を見たのかは知らない。グランセルは実質的には戦地にならなかった為、外で何があったのかはっきりとはわからない。とはいえ、兵士が病院に収容しきれず、聖堂が代わりに使われる程度には激しく戦闘を行っていたのだろう。それに、他の地方では聖職者たちが巻き込まれて死亡した。その葬儀を先日執り行ったばかりだ。
「大怪我をされその痛みと、目を閉じれば声が聞こえる、と」
 呟く神父の言葉に覚えがある。まだ自分の位階がこんなに高くなかった頃に戦地の近い教会で聖務を行っていた。そこで似たことをよく聞いた。目を開けていれば視界に血塗れの兵が立ち、目を閉じれば呼ぶ声が聞こえる。実際に手をかけることになった相手はもちろん、兵器で姿も見ず死んで行ったもの、そして何より巻き込まれて死んで行った一般人たち。こういったものが全て交じり合い、大きな声となって自分を呼びつづけるのだという。
「この国の兵たちはまだましだと思っていたのですが……女王陛下がよく出来た方です」
「それでも、中にはああいう方が居られる。陛下ほどの方でも肩代わりできないほどの、深く重い情に溢れる方が」
 言いながら大司教は階下へ降りた。神父は少しだけ困った表情をしたがすぐ気を取り直して後を追う。死んだ聖職者たちの人員補充の話など、後でもできる。

「あまり根を詰められると体に毒ですよ。ここは寒い」
 祈りに必死になっている女は突然の声に驚き辺りを見回した。そんな彼女の横に黙って座る大司教。
「……答えはありましたか?」
 いかにも位階の高い存在が自分に声をかけていただけるなどとは思いませんでしたと、という言い訳を小さくしてから、奉られている像に目をやった。その横顔は大司教が思っているより若く、幼いとさえ思ってしまう。
「……まだ、自分には、わからないようです」
 初めて聞いた声に張りはない。告解に訪れる人々と同じ、なにかに押しつぶされそうになる声。
 しばらく黙っていると、女の方から少しずつ話し始めた。まだ完全に訓練の終わっていない士官候補生であること。戦役には伝令として参加したこと。ツァイスで帝国兵に捕虜にされたこと。王城へ知らせる為抜け出し、そこで誘拐された少女を助けたこと。その際、敵兵を斬殺し向こうの放った兵器で体に残るほどの大火傷を負ったこと。そして唯一の肉親だった父親も、戦役で失ったこと。
 長い長い時間をかけて搾り出されたこれらのことは、戦争がおこればよくあることだった。大司教も神父も他の場所で幾度か戦争を経験しており、終わった直後にはこうした兵たちが一気に赦しを求めて教会へなだれ込んできたものだ。リベールでは「女王陛下とその国の自由を勝ち取る為」という大義名分が上手く働いていて、そして女王の徳高さのお蔭で、ことの終わりに心が疲れる兵士はそれほどいない。もっとも「それほどいない」だけで決して皆無ではなく、明らかにそうと思える人間は時折聖堂に訪れていた。
「……それでも、兵士となることは、あきらめたくなくて」
「……」
 呟く女の蒼い目には、何か妄執ともいえる炎が見えた気がする。
「そうですか……」
「父が……自分の、士官学校の入学を、とても喜んでくれたから……それに」
 以降は彼女の心の中で呟かれたようだ。けれど大司教には何を考えたのかわかる気がする。
 彼女は口には出さなかったが、捕虜未満の扱いを受けただろうと思う。その証拠に、自分から逃げよう逃げようとしているではないか。僅かに震えている肩が何よりの証拠ではないか。それでも男社会である軍に固執するというのか。
「貴女はまだ若い。軍以外にも道はある」と、簡単に口に出すことはできる。いつものように説教をすることもできる。けれど今の彼女に、それは決して届かない。人の声は彼女に届かない。だからこそ女神の声を聞きにここにいるのだ。
 立場上大司教はこういった兵たちの話を聞きながら暮らしてきた。その兵たちはほぼ確実に退役し、自分の受けた傷をもう一度広げかねない兵としての職務から逃れていく。
「それなのに」
 この女性はあえて傷を抉ろうとしている。何がそこまで追い立てるのかわからない。結局その日はそのまま見送ることになった。

 強くありたい。心も体も鍛え、その身に正しさを宿したいとは、どこかの武道の教えだそうだ。大司教は武道のことはあまり知らないがそういった考えがあるのは知っている。
「……地方へ勤務、ですか?」
「はい。ですので、こちらにはしばらくの間、来ることはできなくなります。大変お世話になりました。自分の馬鹿な話を聞いていただけて、心から感謝しております」
 初めて声をかけてから数回、ほんの少しずつ季節は移った。最初まだ腹部を庇うように歩いていた彼女が真っ直ぐ歩けるようになった頃、聞かされた地方への転勤話。この女性は大司教の願いをよそに軍へと正式に入隊した。親衛隊へすぐ配属になるはずが地方勤務を志願し強行したのが他ならぬ本人と聞き、誰も知られぬように唇を噛んだ。
 初めて会った日の夜、女王へ書簡を送った。こういう女性兵がいる、気遣いをと。驚いたのは女王もその存在を知っているということだった。リベール軍には女性兵も多く各地で似たことが起こっていたが、彼女のことはよく知っているのだ。よくよく聞けば彼女が助け出したのは女王の孫娘、クローディアだという。
「それもきっと軍に固執する原因になってしまったのだろう」
 母はすでに居らず近くにいた肉親である父は戦死。親友と呼べる人間や親戚は疎開して今まだ遠くにいる。この子羊が彷徨いたどり着いたのは国家の長の家。
「では……私と一つ、約束をしていただけませんか?」
「どういったことでしょうか」
 いつもこんなことを言わない大司教だけに、女は虚を突かれたような表情をしている。そしてその裏に若干の好奇心も。ああ、本当ならこの女性は、軍以外にもいろんなことに興味を持ち、そして何事であろうとやり遂げていく人間。
「各地方にも、教会はあります。時間が空いたときで構わないですので、訪れてみてください」
「……わかりました」
 この頃には女性も自分が持ってしまった傷の深さをわかっている。それでも直接言われると否定してしまうのだと女王から来る書簡に記されていた。
「教会や聖職者たちは、そういうときのためのもの」
 女神の祝福がありますように。そっと祈りのしぐさをした。
 強くありたい。もっと強く、もっと優しく。そして人の深淵を見、生死の境に降りる。ほんの少しだけ不幸だったのは、この女性が前と後ろしかみえていないこと。よくよく見回せば脇道もあるのにそれに決して気付かず、自分の過去とそこから連なる真っ直ぐな道しか見ていないのだ。
「……一度死んだ身、とでも思っているのでしょうか」
 女性が帰り、傍にいた修道女に話し掛けるともなく呟く。
「己の身は一度死んだもの。ならば助けてくれた陛下の為、なんでもしよう。どんなに自分が傷ついても構わない。……そういう考えに至らないことだけを、祈りたいです」
 呟きに、修道女も呟きで応じる。

 その日、大司教はいつにも増して長い書簡を女王に当てて書いた。これでどうなるかはわからない。ただ、人の赦しでは耳に届かず、女神に必死になって縋るあの子羊があまりにも悲壮だった。神に仕え、大司教と呼ばれていても、迷う子羊一人助けることが出来ないのだ。
「神の声は自分の内に響くもの。人の手の罪は、本当は人にしか癒すことは出来ないのだよ……」
 名を聞かずに、いや聞けずにいたあの女性が、そういう人に巡り合えることを心から願った。

Ende.

 初めてまともに出して書いたのが確か『Engelbaum』でしたっけ、戦争の傷話。『Air Letten』がそうかな。個人的には『青舞』時点で大体形作られておりました。言うなればうちのユリアさんは帰還兵がなることのあるPTSD持ちです。お誂え向けに信心深いという設定もあることだし、こういうことだろうとしか私は思い浮かばなかった。坊主がカウンセリング代わり。
 作中、ユリアさんは戦役に参加したとはどこにもないけれど、あの話で軍人で、直接前線で戦っていたと明言されている人間がいないわけだけど、絶対こういうことがあったはずなんだ。どんなに注意深く行動していても、押しつぶされそうなストレスに負けて一般人に発砲してしまったリベール兵だっていたっておかしくない。
 直接前線にいたと思われるラッセル博士も、あれだけ機械に執着するのはその反動なのかもしれないな、と思う今日この頃です。司令クラスはそれはそれで別種の葛藤と戦っているだろうけど。カシウスパパも、自分の判断ミスで一個大隊くらい潰したかもしれないわけだし。そういう負の部分って後世に残りにくいもんですね。いわばカシウスパパは英雄だから、そういう部分は必死になって消しにかかってるかもしれないんだし。


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