まずい、引っ張られる! そう思ったときには遅く、落ちるモンスターと一緒にステラも中空に放り出された。とっさに引っかかったところは切りとばしたがそれ以外何もできない。哀れに手足をバタつかせるのみ。遙か下方には海面の輝きがかすかに見える。
「……あっちゃー……」
 やってしまった。ここまでがんばったけれど。積み上げたすべては消える。
「…………溺れる……」
 遙か昔、封じ込めた記憶。どうしたって息ができない、体の中には空気がなくなり水しか存在しない。手をかいても、足を動かしても、決して命の空気までは届かなかった。 「あのときの……続き、な、の?」
 水の気配に満たされる。そうだとしたら、結局自分は溺れ死ぬのだろう。もしかしたら、ここからなら海の底までたどりついて頭が割られるのかも知れないけれど。たぶんそれより先に息が止まる。
「手を!」
 誰かの叫び。まだ死にたくない。まだ生きたい。いろんなことしたいし、いろんなもの食べたいし、恋だってしてみたいのに。
 それらの罪のない欲望たちがステラの手を声のした方へ動かす。
「うわああ!」
 手を捕まれてステラの軌道が変わる。強い力で引っ張られて地面に再び投げ出された。

 かろうじて掴み、ありったけの力でステラを引っ張り寄せたエミリオは彼女を地面に放り投げ、勢い余って自分が落っこちそうになるもなんとか踏みとどまった。今このときほど、基礎体力があってよかったと思うときはない。鉱石様々だ。
「ステラさん!」
「……」
 目は開いているものの息づかいがおかしい。
「ステラさん!? ステラさん!?」
 呼びかけても男をみようとしない。
「溺れている……?」
 まさか? 肩を掴んで強く振った。
「しっかりしてください! ここは地面の上です、大丈夫です!」
「……がっ……はっ」
 大きくせき込んで短く何度も息を吸い込む。吸い込みすぎてまた吐き、そして吸い込む。
 幾度かそれを繰り返した後、不意に頭を上げた。その瞳には理性が戻っている、ようにみえた。
「……エミリオさん?」
「ああよかった……」
「私……」
 不意に涙が瞳にたまる。
「えっ」
「……生きてますか……?」
 胸元を捕まれて動揺するも涙を隠そうともせずに聞いてくる姿に少しエミリオの心が落ち着く。
「生きてますよ。大丈夫です」
「本当に? あのときの続き? 神様がくれた優しい幻? もう解けるの?」
「いや、生きてます。しっかり生きてますって」
 まだ記憶が混同しているのだ。たぶん、川に贄として放り込まれたときの。
「怖いよ、怖いよ! 真っ暗、何もない、水なのか、空気なのか、分からないよ!」
「ステラさん! ここは地上で、周りに水はないですから! 大丈夫です!」
「……ほんと?」
「本当です」
 泣き叫んだそのすべてはたぶんステラが実際に経験してきたこと。以前、さらりとした話だけは聞いたが、そこから想像できる以上の恐怖があったことは想像に難くない。
「けれど、ここまでとは」
 いつも笑っていて、ちょっとお人好しすぎて、努力家で、一生懸命なステラが、今はエミリオの胸に頭を預けて泣いている。誰かのために涙する姿は幾度もみたけれど、自分のために泣いているのはあまりない。一度背を貸したことはあるがあのときは見ていないことになっている。
「……大丈夫です」
 無意識にステラの肩を強く抱いて己の胸に閉じこめる。小さな肩。決して大柄ではない彼女の力はどこからくるのだろうかと思う。
「何度、こうやって泣いたんだろうこの人は」
 笑って、ふつうと変わらない姿になるまで。思い出すときはきっと、一人声を出さずに泣くのだろう。
「泣いてください……泣けるのは、強い証拠だから」
 ため込みすぎずに過ごせるから。ため込めばいつか必ず歯車がはずれる。彼自身にも、小さいながらも経験はある。

 背をなでていることを自覚したのはステラの嗚咽が小さくなってきたから。あわてて離す。
「……」
 手の感触を名残惜しんでいるとようやくステラが顔を上げた。エミリオと目があって、照れくさそうに苦笑い。
「……すいません、やっちゃいました……」
「あ、いや、僕はぜんぜん気にしてないですから」
「ほんっと……申し訳ありません……そして、助けてくれてありがとうございます……」
 胸元から手を離して頭を下げる。それをあわてて上げさせた。
「いや、あんな状況ならいろいろ思うところがあったっておかしくないですから」
「私、まだまだですね」
 男から離れて立ち上がろうとするので、少し休んでいこうと提案。逡巡はしたが結局ステラも座った。
「……地上で溺れるのも久しぶり」
「え」
「やっぱり……あれは忘れられなくて」
「……」
 彼女の口から語られる、物語じゃない過去。知らず握った手が汗をかく。
「なんていうか、やっぱり、助かった後でも何回かこんな調子だったんです。身元を引き受けてくれたお姉さんには本当に迷惑かけちゃったと思う。一日何回も溺れて、そのたびに手当してもらって……真っ暗になるのも嫌だったし、水の流れる音もしばらく嫌だった」
 息を小さく吐いて、まだ残ったままの涙を指で拭く。
「今じゃもうほとんどそういうのはないんですけど、さすがにさっきは、何をどうしても自分の体が思い通りにいかなくて、本当にあのときと同じだったから……何年ぶりだろ」
 指折り数えていたが諦めた。
「……そういうのはなんとか落ち着いてはいますが、今でも思ってしまうのは、今この現状が、あの瞬間に誰かがくれた幻で、本当の自分はあのときの小娘のまま、川を流されているだけなんじゃないかって……。バカみたいな思考ですが、どうしてもこれだけは払拭できないんですよ」
「……そうですか」
 長い長い刹那。人は、その死の間際に過去を振り返ると言うが、もしかしたらその逆だってあるのかも知れない。
「何回も戻りそうな気配があるときを感じたけど、都度腹立ち紛れに振り払ってきました。戻ってなるもんかって。まだやりたいこと一杯ありますし。おいしいものだって食べたいし。もちろん恋だってしたいし」
「えっ!?」
「……何か変なこと言いました?」
「い、いや、あの……そういうことに興味がないとばっかり……」
「エミリオさん……それちょっとひどいですよ。そりゃあなたには何度も男前とか言われるしいわゆる適齢期なんてぶっちぎってますけど……」
「え、そんなことないですよ……僕は気にしないですし」
「はい?」
「な、何でもないです!」
 あわてて首を何度も横に振る。不審そうな目で見るがステラも頭を振った。
「まあとにかくそういう意識がどうしても抜けなくて。変なこと口走ってすいません」
「いえいえ」
「だいたい現状が想像だとしたらどれだけ私の想像力すごいって話ですよね。もっとこうなんというか、穏やかな人生想像しろといいたい。どこをどうしたらこんな起伏が多い上に男も女も変わり者やら朴念仁やらがわんさかいる人生を想像するんでしょうね、本当に」
「……朴念仁で変わり者……」
 ステラの言葉が思ったより痛い。変わり者は自覚しているが朴念仁とはどういうことだ。
「……それでも」
 ふ、と優しい視線を空に向けるステラ。
「仲間には恵まれたなぁ……あの里にいた頃でも、同門の仲間といるととても楽しかった。たぶん中には脛に傷持ってる人もいて、その上で師匠はきっと過去は不問にしてくれたから。それからずっと、仲間には恵まれてますよ」
 場所には恵まれないけれど。小さく付け足された言葉をエミリオは聞かないことにした。
「ああ……それはなによりです」
「あ、他人事じゃないですよ、もちろんエミリオさんにも出会えてよかった」
「それは……うれしいですね」
「ほめたのでこれからはあんまり男前とか言わないでくださいね」
「は?」
「今までなんか油断してたけど七回は言いましたよ。意外と傷つくんですから」
「いやだってステラさん見てるとそうとしか言いようが……最近剣も習熟してきて立ち姿からして格好良いですし。諸々端的に表すのが一番ぴったりなもので」
「……」
 じったりとした視線を投げかけてくるステラ。どうやら納得していないらしい。
「じゃあ、刃物みたいだ、の方がいいですか? 僕としては最上のほめ言葉……」
「どっちも結構です」
 鋭く言葉を遮られてしまう。顔を見ると明らかにいやがっている。
「刃物とか、曲がりなりにも一応女に対してそれはないと思いますよ……他の人とかにいったら修羅場になっても知りませんよ」
「いや、ステラさんにしか言いませんよ」
「……どういう意味ですか」
「どういうもなにも、ステラさん以外そういう人がいないから……ってあれ?」
 よく見るとステラはかなり怒っているようだ。不機嫌さを隠さない。
「男前とか言ってくれたあげくに刃物……私って何なのよ……」
 いきなり立ち上がる。
「もういいです! 行きます!」
「あ、ちょ、ちょっと……何か激しい誤解があるような……?」
 後ろも見ずにステラは行ってしまった。あわてて後を追う。
「いや本当に、あなたしかそういう人居ないから……良い刃物は、強靭でもしなやかで繊細なんですよ……」
 まるっきりステラのようだ、とエミリオは思う。
「できればそのお手入れも僕がしたいところだけど、あれはどうやらその手のことに全く興味がないわけじゃないけど、僕自身のことは相棒以上じゃないってことなんだろうなぁ」
 きっと他のメンバーもそうなんだろうけど。いや、そうなんだと信じたいところだが。
「そのうち昇格、できるかな」
 できれば上々、できなかったら……呪いの剣でも作るか。そんなことを思いながら離れていく背中を追った。


END


 やっぱり、どこかしらゆがみはある感じですね、ステラ。一番のゆがみは、「愛」に対する自覚がないってことですが。
2013.12.26

 

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